第5章 風花の訪れ
第28話 たった一つの大切な道具
それから、幾枚かの鏡を辿り、彼らは秘境とも言うべき山の深部に至っていた。
龍の降らせた雨は、陽によって再び天に吸い上げられ、或いは大地へと染み込んで、訪ね行く鏡は、次第に小さなものになっていった。
気が付けばもう夏は過ぎ、山地には秋の気配が見え始めていた。広葉樹が赤や黄色に色づき始め、冬に備えて木の実を集めに走る小動物たちが、枝の上を忙しく動きまわっている様を良く目にするようになった。
本来ならば、寒さを感じるような時期は、今少し先の筈なのだが、その日の朝は特別に冷え込んだ。思いがけない寒さに目を覚ました洸由は、目の前をちらちらと、冬の訪れを告げる風花が舞っているのに気が付いた。
「お目覚めになられましたか」
火の番をしていた沖斗に声を掛けられた。
「今朝は、特別に冷え込みましたね。まだ、秋が始まったばかりだと言うのに」
「ああ、そうだな」
――何てことだ。今年は、事更に冬が早いのか。
洸由は難しい顔をして考え込んだ。
通常、探索は風花が舞うまでと限られている。その頃にはもう、龍は天へ還ってしまい、例え巣を見つけられても、そこにもう龍はいないと言われているからだ。
実際問題として、風花を合図に引き返さねば、冬が来る前に、無事に山を下りることは難しくなる。これまでの探索とて、一年で終わることは希であり、だいたいは数年から、長い時には五年以上もかけて龍を探し続けたという記録も残っている。だから、ここで引き返したとしても、洸由の働きが不当に低く見積もられることはない。だが……
――ここまで来て。
何の成果もないまま、引き返すのか。
その思いは、洸由の心に言いようのない敗北感を植え付けた。それは、彼が常に無意識に抱いている焦燥感のせいだったのかも知れない。今はまだ、耐える時なのだと、自身にそう言い聞かせても、この数か月の苦労の全てが徒労に終わったのだと思うと、どうしようもなく気持ちが腐った。
やがて起き出したスズリと美玻が、何やら喧々と言い合いながら、朝餉の支度を始めた。傍目には喧嘩しているように見えるが、あれはあれで、きちんと意志疎通が出来ているのだ。そんなことが、最近ようやく分かって来た。要するに、気心が知れた仲という奴だ。
スズリという男は、女をただ甘やかして甘やかしてその気にさせるのだと思っていた。だが、美玻に対しては、甘やかすというよりも、どちらかと言えばきつい当たり様をしている。美玻曰く、「意地悪」な程に。それなのに、どういう訳か、美玻はスズリに一番懐いている。その事実が、洸由にはどうにも面白くない。スズリ自身は、美玻が自分を好きになることなど杞憂だと言っていたが、美玻の懐きようを見ていると、果たして本当に杞憂であると言い切れるものかと疑いたくなる。
――あれは、この国でただ一人の遠見なのだぞ。
本来ならば、どこの馬の骨とも知れない、異国の人間が気安く関わっていい者ではないのだ。この先何年かは続いていくのであろう探索も、あるいは、何十年後かに又来るであろう、次の探索も、もはや美玻の存在無くしては成し遂げられない。
この比奈国にとって、美玻は大切な道具だ。
――いや、この私にとってもだ。
その存在は、必ず自分の手の中に、自分の意志の及ぶ所にあらねばならない――確実に。
万が一にも、次の探索の指揮を、洸由以外の誰かが執ることなどあってはならないのだ。更に言えば、彼女がいずれ子を成し、その子が遠見となった先も、自分はずっと探索に関わり続けていなければならない……そうすることで、洸由の王宮での地位は確固たるものになっていくのだから。
洸由の目に冷たい光が宿る。
つまり――美玻が、自分よりもスズリに懐いている現状は、言語道断だと言わざるを得ない。
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