第61話 真紅の花の中で【完結】

(ねえ……お願い、スズリ。目を……開けて)


 きっと、玫瑰の花の甘い香りに誘われたのだろう。夏至の日の、長い午睡のまどろみの中で、自分はまた甘い夢を見ているのだ。そんなことを思いながら、スズリの意識は再び深い眠りに戻っていく――と、

「ねえ……目を開けてよ……」

 忘れようもない声がはっきりと、今度は耳元で囁いた。

 刹那、言いようもない懐かしさが込み上げて、目の際から涙がこめかみを伝い落ちた。と、そこに労わるような優しい口づけが落とされた。


――これは、夢か……?


 幸せなまどろみから抜け出すのに少しの葛藤を生じながら、スズリはようやく目を開けた。

 雲ひとつない初夏の明るい蒼天の中に、健康的に日焼けをした若い娘の笑顔があった。


 その美しさに、思わず見入る。そして次の瞬間、そこに忘れ得ぬ人の面影があることに気付き、心に戸惑いが広がった。自分が胸の中に大切にしまっていた面影は、色白で小さく弱々しかった少女のものだ。それと目の前で自分の顔を覗きこんでいる娘が同じ人物だとは俄かには信じがたく、思わず、

「……美玻……か?」

 と、確認するような問い掛けをしていた。

 娘が少し首を傾げるようにして笑顔で頷く。

「……見違えた」

「そう?」

「美しくなった……」

 そう言うと、美玻の頬にみるみる朱が差した。

「……相変わらず……口が上手」

「お世辞なんかじゃありません……本当に……」

「もう、黙ってて……」

 美玻がはにかんだような笑みを浮かべ、不意にスズリに顔を寄せる。

「美……?」

「……会いたかった」

 そう囁く声と共に、その小さな唇がそっとスズリの唇に重ね合わされた。


 触れ合った唇から、美玻の思いが流れ込んでくる。そこから伝わる熱に融かされるようにして、重たい罪を抱え込んで硬直していた心が緩やかに解けていく。慈しむような優しい感情の波が、どこか乾いていたスズリの感情の岸に打ち寄せる。言いようもなく甘く心地の良い波に心が揺らされた。


――こんな現実があっていいのか。


 いつしか縋る様に、スズリは美玻の体を抱き寄せて深く口づけていた。またいつもの夢のように消えてしまうのではないか。そんな不安を払しょくするように、美玻の戸惑うように漏れる息遣いに煽られながら、スズリの口づけは更に深くなっていく。

「……スズリ……どうしたの?……泣いてる……の?」

 やがて美玻にそう声を掛けられて、我に返った。


――泣いてるなんて馬鹿なこと……


「……あれ……どうして……私は……」

 涙が止まらない。哀しい訳でもないのに、泣くなんて。

「……良かったね。泣けるようになったんだね」

「泣けるように……」

 改めて言われて、少し照れくさく思う。思えば自分は、美玻のことを思いながら、泣く練習をしていたのだと言っても過言ではないのだから。こんなにも、感情が自由にならないことがあるなんて、我ながら驚きを禁じ得ない。自嘲気味に起き上がって涙を拭い、大きく呼吸をして気持ちを落ち着かせる。

「……何か、哀しいことを思い出したの?」

 美玻が気遣うように身を寄せて訊く。

「いえ……この涙は、嬉しくて……ですね。……そう……多分。あなたが生きていてくれたから……」

 そう言って向けられた真摯な顔に、美玻は胸が締め付けられる思いがした。

「……」

 自分の命は、色々な人に生かして貰ったものだ。そんな命が後ろめたくて、重たくて嫌だったこともある。でも今、自分がここにいることで、こんな風にスズリが泣いてくれる。それが自分が生かされていた理由なのだとしたら……それはとても幸せなことではないのか。

「……やっぱり、泣きますか」

 スズリが、まだ少し涙で滲んだままの目で笑った。

「これはっ、スズリの貰い泣きだもん」


 ふわりとスズリの袖が翻って、慌てて涙を拭おうとした美玻の体を包み込んだ。

 その懐かしい心地よさに、美玻はスズリの胸に顔を埋めた。

 野原を風が渡り、玫瑰の花が揺れる音に、甘い香りが立ち上る。


――ああ。幸せって……こういうこと?

 紅澪にいくら問うても分からなかった感覚が、不意に納得できた。

――だから……


 どんなに辛い時でも、この腕の中で自分は幸せだったから。だから乗り越えて来られたのだ。沖斗でも洸由でも紅澪でもなく、スズリでなければならなかったのは、この幸せを失いたくなかったから。そうではなかったのか。


――大丈夫だよ、紅澪。あたしはここで幸せになれるから――



「……それにしても、よく私の居場所が分かりましたね」

「ああ、それは……」

 美玻が野原の端の方へ目をやったのにつられて、スズリがそちらを見ると、そこにもう一人懐かしい顔があった。

「あれは、鴒帆ですか?」

 成程、芳聞は伊達ではないのかと思う。しかし、それにしても、いくら芳聞でも千里先の匂いを嗅ぎわけるという訳では……

「あたしね、今、鴒帆さんのお店で働かせて貰っているの、それで……」

「ど……どうして、そんなことになっているんですか!?」

「ふふっ。世の中って不思議でしょう?あのね、スズリ。あたし、あなたに話したいことがたくさんあるのよ?」

「……そうですか」

「うんっ」


――それは、聞きたいような聞きたくないような……


「……そうですね。私も……あなたに聞いて貰いたいことがあるかも知れません……」

「本当に?うん聞くよ。何でも」

 美玻がいかにも嬉しそうな顔を見せる。

「……いえ……私のは、そんなに楽しい話という訳では……」

「うん。でも聞かせて」

 嬉しいことも哀しいことも、抱え込んだこと全て――

「話してくれたら、嬉しいもの」





【 茜天の鱗鎖 完 】

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茜天の鱗鎖(せんてんのりんさ) 抹茶かりんと @karintobooks

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