第19話 年功序列が世の理

 その旅立ちの日、夏至を越えた日差しは、いっそう眩しかった。

 日除けにと頭に載せられた市女笠から垂れ下がる麻布の隙間から、晴れ渡った空を見上げた美玻は、その見事な蒼に、思わず感嘆のため息を漏らした。

 正直、まだ不安はあった。

 だが、こんな空の下を、自分の思う様に歩いていいのだという解放感は、そんな不安など小さく丸めて心の隅っこに押し込めてしまった。


 少し歩いて、思い出したように振り返った比奈の城は、ただ日常の穏やかな営みの中にあった。そんな日常に紛れて、遠見とその一行はいつの間にか、城から姿を消しているのだ。もちろん、彼らの旅立ちを見送る者など、一人もいない。それが秘密裏に行われる、龍の探索なのだという。美玻に同行しているのは、絵師のスズリと、比奈国第五王子の洸由、そして、洸由が独断で一行に加えた沖斗であった。

 どうして沖斗が同行しているのかと言えば、そもそも美玻は、歩くだけが精一杯で荷物など持てないし、スズリはといえば、本人曰く……


――絵師とは、筆より重たいものを持たぬもの。


 であるらしく、洸由とて、最低限自分のものは持つにしても、そこまでが譲歩の限界であり、結局、もう一人、重点的に力仕事を担ってくれる人間が必要となったせいである。要するに、荷物持ちということである。

 彼らの旅は、そんな風に始まった。



「おい、娘。まだ後ろを振り向きたくなる程、歩いてはおらぬぞ、さっさと歩かぬか、このたわけめが。日暮れまでに目的の村に着かねば、野宿になるのだぞ」

 気が付けば、洸由が不機嫌そうな顔をこちらに向けていた。美玻は慌てて前を向いてまた歩き出す。

「おやおや、洸由様ったら、随分と気が急いていることでございますねぇ。辺りの景色に目もくれず、ただ黙々と歩くだけとは、旅の面白味が半減してしまいますものを」

「誰のせいで、予定が大幅に遅れたのだと思っているのだ、貴様は」

「これはこれは……」

 直截的な切り返しに、スズリが苦笑する。

「それに、だ。そなた、絵師ごときが、この俺に対して、随分と遠慮のない物言いではないのか」

「おや……この探索は極秘ゆえ、洸由様もご身分を伏せての旅なのだと、そうおっしゃられておいでではありませでしたか?それ故、旅の間は無礼講で構わぬからと」

「それは……そうだが」

 なるべく目立たぬよう、平民の旅を装う。確かにそう言った。だが、実際に目の前でそれをやられると、微妙に腹立たしいのだ。

「身分を取り払って考えれば、目下のものが目上を敬うのが世の習わし」

「何が言いたい」

「私は、今年二十五となったのでございますが。ちなみに洸由様は……?」

「……二十三」

「では、そういうことで、ひとつよしなに」

「そういうこと、とは、どういう意味だ?」

「流石に、スズリ様と呼べとは申しませんが」

 スズリが含み笑いをしながら言う。

「大変畏れ多いことながら、たった今から、あなた様を、敬意を込めて呼び捨て、とさせて頂きます。宜しいですね、洸由」

「……ああ、何やら波紅がそなたを忌々しく思った心情がたった今、理解できた気がするぞ」

 洸由が、眉間に幾本もの縦皺を刻みながら言うが、スズリは意に介さない。

「それに、あくまで我々は、遠見様を補佐する者としてこの旅に同行しているのですから、この中で、最も敬うべきは、美玻なのだと思いますが」

「……あ、あたし?」

 いきなり引き合いに出されて、美玻が身を竦める。

「と、とんでもないです。あたしなんかをどうこうって。お願いですから普通に、普通に扱って下さいっ。でないと、却って落ち着きませんからっ」

「我らが遠見様は、実に寛大なお心の持ち主でいらっしゃる」

「……止めてください、もう。恥ずかしい……」

 大概『スズリ慣れ』して来た美玻は、流石にここでからかわれているのだと気づいたらしく、頬を膨らませている。

「遠見様は、普通がお望みだとのことですが、どうなさいますか、洸由?」

「分かったよ。我らの間では、上下なく何事も平らかにすればいいのだろう。それで構わぬな?……沖斗、お前もだぞ、いいな?」

 唐突に洸由にそう宣言されて、沖斗が面食らった顔をする。

「しかし、洸由……さ……」

「沖斗」

「承知……いたしました、洸由……」

――様

 と、せめて心の中で付け加えて、沖斗は申し訳なさそうに頭を垂れる。

「美玻も、宜しいですね」

 スズリに念を押されて、こちらも困ったような顔をして渋々頷いた。


 その日は、そんな具合で、途中幾度かの休憩を入れながら、一行は夕暮れ間近にようやく予定していた村に着くことが出来た。宿の湯に浸かって体をほぐし、食事を取ってひと心地つくと、美玻は疲労に勝てず、そのまますぐに眠りに落ちた。



 夜が明けてすぐ、一行は身支度を整えてまた歩き出す。前日の疲れが取れていないのか、はたまた目的の場所に近づいて行くことが憂鬱なのか、美玻の口数は朝から少なかった。

 彼らが目指しているのは、遠見の郷だった。


 城に残されていた過去の探索の記録によれば、探索の起点は常に、果て見の頂と呼ばれる、遠見の郷に程近い場所にある山の頂であるとされている。


 洸由が最初の目的地を告げた時に、美玻は目に見えて動揺していた。郷があんなことになって、そんな場所に美玻を連れて行くのを可哀相に思わない訳でもない。だが、そこに行かねば、何事も始まらないのだと言われれば、洸由が躊躇う理由はなかった。美玻も、遠見としての役を全うすると腹を括ったのだろう。辛そうな顔をしながらも、この期に及んで、否とは言わなかった。


――少しの間に、随分と強くなった。


 美玻の様子に、洸由はそんな事を思った。

 逃げることばかりを言っていた娘が、いかなる心境の変化があったものなのか。……或いは、逃げられないと諦めて、ただ開き直っただけなのか。


――まあ、どうでもいいことだが……


 自分が龍の鱗を持ち帰る為に役に立ってくれれば、それでいい。洸由は、前を行く娘の背を見ながら、そんなことを考えていた。

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