第20話 腕の中の小さな遠見

 その更に翌日、一行は人里を離れ、とうとう山へ入った。

 ここより先は、元々、遠見の者以外には住まう者のない山地である。龍との関わりを持つ為の、聖なる地であるとされているこの場所に、遠見以外の人間で立ち入る者は滅多にいない。理を知らぬ者が不用意に立ち入れば、災いを受ける。そんな言い伝えが、この地方では古来から伝えられているからだ。


 遠見もすでにいない今となっては、そこは比奈の国の内とはいえ、人里の穏やかさとは無縁の、すでに異境の空気を漂わせる場所であった。気を張り、自身の存在はこの場所では異質なものなのだと意識しながら行かねば、この山の気に飲み込まれてしまう。気を緩めたら、二度とここから抜け出ることが出来なくなりそうな、そんな心許ない気持ちにさせられる。そんな厳粛な空気に、彼らは互いに口数も少なく、ただ無心に山道を登った。


 生い茂る木々に光は遮られて、まだ陽は高い筈であるのに、道は薄暗い。だが、そのお陰といおうか、暑さは幾分和らいで、歩くことをだいぶ楽にしてくれていた。時折、沢から吹き昇って来る清涼な風が心地良かった。道を行くほどに、そんな自然の光や風や水音に体が馴染んで、美玻は自分の気持ちが落ち着いて行くのを感じていた。そして気づく。自分は、生まれてからずっと、この空気に包まれていた。それを体が覚えているのだと。


 道の先で木々が途切れ、まだ中天を過ぎる前の鮮烈な陽の光がそこに差し掛かっていた。吸い寄せられるように明るいその場所へ近づくと、視界が拓け、下方に集落が見えた。正確に言えば、それは、集落が燃え落ちた後の廃墟であった。


「……ここが、遠見」

 美玻がぽつりと呟いた。その表情に感情は見えなかった。

 これまで郷の外に出たことがなかった美玻にとっては、ここから、以前には郷がどのように見えたのかということも知らなかった。だから、自分の記憶の中の郷と、目の前の廃墟が同じものだということが、良く飲み込めなかったのだ。しかし、その横で、この場所につい最近立ったことのある洸由と沖斗は、共に複雑な表情を浮かべていた。


 あの時はただ夢中で、自分たちが夜の中に何を残して来たのかなど、考える余裕もなかった。朝靄にぼんやりと見えた光景も、彼らに何も語りかけては来なかった。

 だが、今……


 夏の鮮明な光に、くっきりと浮かび上がった廃墟の姿は、その惨状を、やむを得ないこととして簡単に片付けることを許さないような、凄絶さを彼らに突きつけていた。

「……郷に下りてみますか?」

 無言のまま佇む三人に、スズリが声を掛けた。ここで道は、頂きへ至る上り坂と、郷へ向かう下り坂に分岐している。その下り坂をしばらく見据えてから、洸由が首を振った。

「……いや。無暗に近寄らぬ方がいいだろう。探索に影響が及んでも困るしな」

「……穢れ……という訳ですか」

「まあ、そういうことだ」

 そんな会話の間に、ふと、美玻が小さくしゃくり上げる声がした。


 見れば少女は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。それでも、ぎりぎりの所で、堪えているのだろう、涙で一杯の目から、まだその雫は落ちていなかった。スズリがため息を一つ落としてから、何も言わずに美玻を抱き寄せた。


 目を反らせずにいた惨状から解放されて、強張っていた体が、スズリの腕の中で解されて行く。それでも、美玻は唇を噛みしめて、肩を震わせながらもまだ涙を堪えていた。

「……今は、泣いても構わない。誰も文句は言わないから」

 これ程のことを黙って抱え込めるほど、美玻が強くないことを、スズリは良く分かっていた。手っ取り早く泣かせて、気持ちを吐き出させてやった方が、気持ちの沈み方も少なくて済むだろうと思ったのだ。ところが……

「……もう……なかない……て……きめ……た……のにっ……」

 涙を堪えているせいで、まともに喋れもしないのに、美玻はそんな事を言う。

「……どうしてそんなことを」

「だ……って……よわい……じぶんは……いや……それに……ないたらスズリは……」

――私が……?

「……いじわる……する……し……」

 瞬間、洸由に軽蔑したような視線を向けられたのを感じた。

 スズリとしては苦笑するしかない。

「……今日はそんなことしませんから……」

「……ほ……んとう……に?」

「はい」

「……」

「本当です。大丈夫ですから」

 言って、とんとんとその背を軽く叩く。その途端、堰が切れたように、美玻は泣き出した。号泣といってもいい程の、感情の発露に、思いがけず胸が突かれた。美玻の感情に引き摺られた自分を腹立たしく思いながら、スズリは空を見上げる。


 蒼空を眺めていると、動揺した気持ちはすぐに収まった。そして、時折思い出したように、子供をあやすようにとんとんと、美玻の背を叩きながら考える。


――本当に、この遠見は……何だってこんなに小さくて弱い……


 その現実が何とも腹立たしい。

 こんな事では、いざという時に、こちらの決心が鈍りかねない。そんな危惧さえ覚える。


――こんなことでは、駄目だ。こんな未熟なことでは……


 スズリはまた、小さくため息を付いた。

 一方、美玻は、そんなスズリの腕の中で豪快に泣きながら、時折、あやすように背を叩かれる度に、結局、泣けばやはり子供扱いなのだと、そんなことが馬鹿みたいに悔しく思えて、涙の量を余計に増やす羽目になっていた。

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