第13話 刻印

「ああ、もう。話が見えるようだわ。がさつな洸由兄さまでは、あの娘を持て余すかもしれない。娘の心を開いたお前なら、娘の扱いも安心だから、とか何とかっ。尤もらしい理由を付けて、お父様をその気にさせたに決まってるんだから」

「……しかし、何故私なんです」

「宰相はきっと、お前を私の側に置いておきたくないのでしょうよ」

「ははぁ……そういう……」

 スズリが苦笑する。


 王女に関する醜聞の類は、スズリも承知している。自分が、王宮で何と言われているのかも。情夫、間男、男娼……その他諸々だ。そんな彼がここに居られるのは、波紅の我儘を比奈王が黙認しているからに過ぎない。そもそも、隣室に常にお付きの女官が控えている状態で、睦事など出来よう筈もないのだが、噂などというものは、刺激的な話題であればあるほど、まことしやかに面白おかしく伝わっていく。宰相にとっては、そんな噂が立つ事自体がもう問題なのだろう。


「あの堅物、まだ諦めていなかったんだわ。この機にとばかりに、厄介者を追い出しにかかるなんて。姑息な真似を」

「……それでは、私はまた旅に出なくてはならないのですね」

 スズリがため息混じりに言う。しかし、旅という言葉に、隠しきれない嬉しさが乗っているのが波紅には透けて見えた。それが、どうしようもなく気持ちを逆なでする。それでも、制御が利かなくなりかけた感情を、彼女は辛うじて押し留めた。感情に振り回されて醜態をさらすなど、王女としての自尊心が許しはしなかった。

「……スズリ、一旦お下がり。用が出来たら、また呼ぶわ」

「……はい。畏まりました」

 お辞儀をして退出するスズリを見据える波紅の目に、剣呑な光が宿る。


――私は、ここにいなければならないのに。この男はまた、自由に外の広い世界へ出ていく。


 行ったら最後、スズリはもうここには戻っては来ないだろう。

 波紅には、そんな確信があった。そんなことを、自分はみすみす許すというのか……

――許せる筈はなかろうな。

 いつしか王女の口元には、不気味な笑みが浮かんでいた。



 数刻の後、スズリは再び波紅に呼ばれて、その居室を訪れた。

 いつもの様に勝手知ったる様子で気安く踏み入れた足は、しかしすぐに止まる。いつもの芳しい香りに変わって、部屋は鉱物を焼いたような、鼻を付く嫌な臭いに満ちていたからだ。そして王女が、普段あまり馴染みのない……この部屋にいるには不自然な男たちを従えているのを認めて、彼は眉を顰めた。出で立ちを見れば、城の下級役人であることが分かる。更に言えば、彼らは、罪人を仕切っている牢番たちであろうと思われた。


「……波紅様……これは一体」

 自分に不審の目を向けるスズリに、波紅は絵に描いたような笑みを返して言う。

「私には今、とても気掛かりなことがあるのよ」

「気掛かり……でございますか?」

「そう、気掛かり。ねえ、スズリ、ずっと諸国を流れ歩いていたあなたは、きっと旅が好きね?」

「……それは……私は絵師でございますから、様々な場所へ赴き、自分の見た事もないような景色や花や動物たちを、描いてみたいという思いはございます。でも、それは、絵師としての業のようなもので……」

「要するに、好き、よね?」

「……はい」

「まあ、それは絵師ならば当然、といったところかしら。それはいいの。ただね、今度のことで、ここを出て行ったあなたは、もうここへは戻って来ない……私にはそんな風に思えるのよ」

「……波紅様、何をおっしゃいます。どこへ参ろうと、私の戻る場所は、ここより他にございませんものを」

「ええ。分かってはいるのよ?でも、心配で心配で堪らないの。もし二度と戻って来なかったらって……」

「……波紅様は……私の心をお疑いなのですね」

 スズリが、傷ついたような恨みがましいような顔を向けると、波紅が艶やかな笑みを返す。

「疑っている訳ではないのよ、ただ心配なだけで」

「……波紅様」

「だから、旅に出る前に、あなたにしるしをつけさせてくれない?あなたが間違いなくこの私のモノで、必ずこの場所に戻ってくるという証を……刻ませてくれないかしら?あなたのその体に……」

「……しるし……って」

 笑みを湛えた口から紡がれた言葉の意味が、直ぐには理解出来なかった。しかし、波紅の合図で、両側から男たちに乱暴に腕を掴まれて体を押さえつけられ、床に跪かせられるに至り、スズリは自分の置かれている状況を理解した。


「……波紅様っ……どうか、おやめ下さい」

「あら、あなたのそんな余裕のなさそうな顔、初めて見るわ……そんな風に顔を歪めていても、美しいのね。面白い」

 波紅がそういう間にも、別の男が焼きごてを熱している気配がする。炭の擦れるシャリシャリという音と共に、鉄の焼ける嫌な臭いがみるみる濃くなっていく。その不快な臭いが、体に絡み付いてくるような感覚に悪寒が走る。不幸にも、スズリはその意味する所をよく知っていた。せり上がってくる恐怖を押し込め、己に気丈であることを課したが、

「……どう……か……お許し……下さい……」

 そう言った自分の声は震えていた。


 平静を失わされた屈辱に唇を噛む。しかし、波紅はそんなスズリの様子など気にも留めていない風だった。王女の様子は、どこか楽しげですらある。そんな残酷な一面を持っていることを、自分は見抜けなかったのだ。迂闊だったと言わざるを得ない。

「そう、ね。利き手は止めておいてあげるわ。あの優美で繊細な線が描けなくなったら、大ごとだから。さあ、そちらの手を、左手を出しなさい」

「……波紅様……どうか……」

「あなたが私の物だという印をつけておいてあげると言っているのよ。あなたがどこへ行っても、比奈国第三王女であるこの波紅の大切な所有物として、丁寧な扱いを受けられるようにね……それは、とても名誉なことなのよ?嬉しいでしょう?嬉しいわよね?」

「……波紅……様……」

「さあ、スズリ。その手を出して」


 スズリの意志など関係なく、左手が腕ごとぐいと引っ張られ、牢番の太い腕に抱え込まれるようにして押さえつけられる。もう、どうやっても逃げようのない所へ、自分は入り込んでしまったのだと悟る。何でも器用に、そつなくこなして来たつもりだった。自分でも、そんな才能があるのだと、どこかで奢っていたのかも知れない。他人に隙など見せたことはなかったのに。こんな風に、無様に虐げられる羽目になるとは。


――全く、とんだ失態だな。


 床とお見合いしながら自嘲したスズリの、その不敵な笑みに気づいた者はいなかった。

「……くっ……」

 想像以上の激痛が左手の甲に来た。もしかしたら、手首から先、無くなってしまったのではないだろうかと、そう思う程の痛みに、しかし悲鳴はどうにか押し殺した。ここで無様に泣き叫ぶなど、スズリの矜持が決して許さなかったのだ。スズリの意識はそのまま、暗い闇の中に飲み込まれた。

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