第36話 遠見の想い

 白いばかりの世界に、音は無かった。本来ならば、普通に耳に届くはずの風の音や、森に潜む獣の気配、それに空を行く鳥の声すらも聞こえない。


――静かすぎる。


 辺りの気配を探るように集中した意識に、何も引っ掛かってこないことに、洸由はいぶかしげに首を傾げた。沖斗はこの違和感に気づいていないのか。それを確かめようと、顔を上げたところで初めて、洸由は美玻の姿がないことに気づいた。

「沖斗……美玻はどうした?」

 そう問われて、沖斗が怪訝そうな顔をする。

「美玻ならは、ここに……」

 言い掛けて、その声が途切れ、その表情が焦りを帯びる。美玻の傍らにいた沖斗でさえも、彼女がいなくなっていたことに気づいていなかったようだ。

「美玻?美玻っ!」

 沖斗が我を失わんばかりに慌てた様子で、美玻の名を、繰り返し呼ばわりながら、辺りを探す。そんな姿を目の当たりにして、洸由の中に、一つの確信が生まれた。

「沖斗、俺を殴ったのは、お前だな?」

 真正面からそう問うと、沖斗が足を止めた。


「……はい。申し訳ございませんでした……」

 問い詰められれば隠しだてをする積りもなかったのだろう、沖斗は神妙な顔で頭を下げた。

「要するに何だ。やはりお前は、あの娘に惚れているという訳か……ならば何故、自分のものにせぬ。私は、お前に一度その機会を与えてやった筈だろう」

「……私には……それは分を越える振る舞い……」

「この私が許すと言ってもか」

「神が……お許しにはなりません」

「神……だと?どういう意味だ、それは」

「洸由。どうかこの話は、後ほどに。今はまず、美玻を探さなければ……」

 沖斗が有無を言わせぬ真剣な顔で言い、辺りを見渡すように頭を巡らせる。


「……柘榴」

 やがて沖斗は、霧の中の一点に、確信を持ったように視線を止めた。

「洸由、あちらに、柘榴の姿があります……」

「柘榴だと?」

 示された方を見るが、洸由には白いばかりの世界しか見えない。

「……ああ、柘榴の向かう先に、美玻の姿が……ご覧になられますか?」

 少し安堵した声でそう問うてきた沖斗に、洸由は示された方に目を凝らすが、やはり何も見えない。

「こちらです」

 沖斗の姿が、白い霧の中に吸い込まれるように消えて行く。洸由は慌ててその背中を追った。



 果たして、しばらく霧の中を行くと、岩場の間を、見覚えのある細長い紐状のものが這って行くのが見えた。柘榴の尾だ。沖斗はそれを追って、更に霧の中を進んで行く。


――これが見えたのか……この霧の中で、向こうの尾根から?


「沖斗」

「はい?」

 沖斗が足を止めて振り返る。

「お前は、遠見なのか」

 洸由のその問いに対して、沖斗は少し困ったような、せつないような表情をして笑った。


――この表情は、肯定か。


「……お前が遠見なのだとすれば……それならば、色々と辻褄が合う。近在の郷と言っても、遠見は特殊な郷だ。外部の人間が容易く出入りできるような場所ではないだろう。それなのに、お前は遠見のことを良く知っていた。美玻は郷長の娘だったという。つまり、お前が美玻を大切に思うその気持ちは、お前が遠見だった故ではないのか」

「美玻様は、当代随一の遠見となられる筈のお方だったのです。それを、生贄にするなど……そんなことが許せると思いますか」


 沖斗の目に、これまで見せたことのないような、強い光が宿っていた。

 そこに洸由は、沖斗の、美玻に対する強い崇拝の念を感じ取った。

 それは、僅かに狂気さえ感じるほどの真剣で真っ直ぐな、想い。


「まさか……お前は……」

 それ以上は、言葉に出来なかった。

 今、自分の目の前に居るこの男は、一人の娘への崇拝のために、何の躊躇もなく、郷を一つ滅ぼしたというのか。ただ、美玻を救いたいという、その思いゆえに、その手を罪に染めたのだと。そして、忠誠を誓ったこの自分さえも欺いていたのか。その真実に辿り着いた洸由は、ただ呆然とその場に立ち尽くすばかりだった。


「美玻―っ!」

 白いだけの世界に、沖斗の叫び声が響いた。

 その声に我に返った時にはもう、そこに沖斗の姿は無かった。洸由は沖斗の姿を見失っていた。

「沖斗っ!どこだ、沖斗」

 叫んでも、返事はない。洸由はただ一人、深い霧の中に取り残されていた。




 まだ晴れ切らぬ朝霧の中、美玻は一人、崖伝いに身の幅ほどしかない坂を下っていた。やがてその坂が崖に断ち切られるようにして途切れると、そこに大きな洞穴が姿を見せた。中に、何か蠢くモノの気配があった。

 スズリの話では、ここが探し求めた龍の巣だという。美玻が気配を探る様に中を伺うと、いきなり耳を覆うばかりの咆哮に晒された。驚いて尻もちを着く。湧き上がる恐怖をどうにか飲み込んで、立ち上がろうと後ろ手を付いた途端、地面が崩れて手は空を泳いだ。

「……うゎぁ……ぁ」

 慌てて体勢を立て直し、事なきを得る。そして改めて肩ごしに背後を見遣ると、僅かに動かした体に押し出された小石が、カーンという高い音を立てながら下へ落ちて行った。そして音も届かない程の遥か下方で、小石は滔々と流れる激流に飲み込まれたのが見えた。ここは断崖の上なのだと認識する。


――ここ落ちたら、ひとたまりもないだろうなぁ……


 そんなことを考えてから、自分には関係のないことだと気づき、ふと笑みが漏れた。自分は、そういう死に方をする訳にはいかないのだ。スズリの為に――


 死ぬのが怖くないと言えば、嘘だ。それでも、スズリは美玻に嘘は言わなかった。きちんと、美玻が死ななければならない理由を話してくれた。そして何より、本当の感情を表に出すことの無かったスズリが、自分のために泣いてくれた。

 たったそれだけの理由でと、人は哂うのかも知れない。それでも、あの時に死に損ねた負い目が、自分を救ってくれた人の役に立つことで、払拭されるのだと知った時、その心に浮かんだのは、安堵の気持ちだったのだ。自分は重たい運命から、ようやく解放されるのだと、そう思った。



 意を決して、美玻はその断崖の際に立った。

 洞穴からは、獣が唸るような声が絶え間なく聞こえている。見据えた闇が、やがてゆらりゆらりと動き始めた。大きな躯体を持つ生き物が、そこから這い出して来る。込み上げる恐怖に、止めようもなく体が震え続ける。それでも、美玻は龍を見詰めたまま、そこから逃げなかった。


 かつて、彼方天空に見た龍が、そこにいた。


 目の前に佇む少女が何であるのかを分かっているかのように、龍はゆっくりと体をよじりながら近づいて来る。やがてその鼻先が、美玻のすぐ傍まで迫った。気が付けば、辺りの霧はきれいに消え失せており、巨大な龍の体躯に陽が差しかかった。

 刹那、鱗が陽を弾いて、美しく碧色に輝いた。その美しさに、美玻は魅了された。


――こんな美しいモノに喰われるなら、いいよね……

 自分に最後の確認をする様に、そんなことを思い、その美しい碧色を封じ込めるように美玻は瞳を閉じた。

――これでもう、何もかもを終わりに出来る。

 そう、思った。

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