第35話 私の望むもの

――あんな所に……

 その姿に、張り詰めていた気持ちが緩んだのだろう。美玻は何も考えずに数歩、そちらの方へ歩き出す。そこでふと、沖斗に一言言ってから行くべきかと思い、後ろを振り返った。

「……沖斗?」

 そう離れていない筈なのに、そこには霧が巻いているばかりで、沖斗の姿も洸由の姿もすでに見えなかった。再度名を呼んでみても、応えもない。

「……どうして」

 不可思議な出来ごとに、言いようもない不安が込み上げた。すると、

「この霧は、龍雲と言って、龍がその身を隠す為に纏う特別な霧なのですよ」

 すぐ傍で、スズリの声がした。

「……スズリ」

 気が付けば、離れた場所にいた筈のスズリが傍らに立っていた。

「この霧の中では距離や時間といった尺が、どうも、通常の場所とは異なるようですね」

「そう……なんだ」

「大丈夫、怖がることはありませんよ」

 言いながら、美玻の視界を遮るように、スズリは彼女をその腕の中に抱き寄せた。


 見え過ぎるということは、より多くの事象を自分の中に取り込むことであり、多すぎる情報を与えられる目は、神経を容易に疲弊させる。その疲弊こそが、美玻の心に不安を呼び起こすのだ。それを知っているのか、スズリはいつでも、その不安を遮断するように美玻の視界を塞いでくれる。だから、スズリの腕の中は、美玻にとっては特別で、落ちつける心地の良い場所だった。


 その心地よさに身を預けながら、美玻は何となくスズリの胸に耳を寄せた。すると聞こえたスズリの鼓動は、思いがけず、その落ち着いた言動とは裏腹に、早鐘のように激しく鳴り続けていた。そこに、いつもと違う違和感を覚える。


――どうしたんだろう……スズリ。


 そんな心の声に応じるように、スズリが身動ぎをして、美玻の体を少し強く抱き直した。

「……スズリ?」

「……前に、牢の中で言ったことを覚えていますか?あなたが今生きているのは、必要があって生かされているのだと。私はそう言いました」

「……うん」

「神様が生贄の命を取らなかったのは、神様の意志なのだと」

「……」

 頭の上で、気持ちを落ち着かせるかのように、スズリが大きく息を吐き出したのを感じた。

「……その言葉には続きがあります。それは、あなたが生贄ではなくなったのではなく、生贄として命を捧げるべき時が、まだ来ていなかっただけなのだと……」

「……どういう……」

「神様は、今こそ、あなたが生贄として捧げられることを望んでいるのです」

「……あたし……の……命……?……」

 何を言われているのか、まだ飲み込めない美玻に、スズリの説明は更に続く。


「普通に剥ぎ取られた龍の鱗は、万病に効く薬となります。が、鴻の皇帝の求める希物に値する鱗は、龍に生贄を与えて初めて手に入れられる、本当に特別なモノ。瀕死の龍が、生贄の魂を糧に命の再生を果たす。その瞬間に光り輝く鱗。それこそが、不老不死の霊薬になると言われる、特別な鱗なのです。そしてそれは、長い長い探索の果てに、その龍を見つけ出した遠見を生贄として捧げることでしか、手に入れることが出来ない……つまり、遠見の命と引き換えにしか手に入れることが出来ない鱗なのです」


 遠見の命と引き換え――それはつまり、唯一の遠見である美玻の命と引き換えということなのだと、スズリは言っているのだ。美玻はようやくそう理解した。


「それが、希物と呼ばれる鱗……」

 そう呟いた美玻の体を抱く腕に、ぐっと力が籠ったのを感じた。

「……私は、どうしてもその鱗が欲しい……」

「……え?」

 スズリは今、何と言ったのか。

「……私には、どうしてもその鱗が必要なのです」

 その切実な声に、スズリの強い意志を感じた。


 希物である鱗を、スズリが何故欲しがるのだろう。あまり物事に執着しない感じのスズリと、不老不死をもたらすという希物とが、うまく結びつかなかった。

「だから……だから、美玻……」

 あくまで平静を装おうとしているスズリの声は、しかし本人の意志とは裏腹に僅かに震えていた。

「美玻……私にお前の……その命をくれないだろうか……」

 スズリの心臓は壊れそうなほどに、激しく鼓動を打ち付けていた。それは、自分の願いが簡単には聞き入れられない、非道な願いであるという自覚ゆえなのだろう。

「……大切な……人を……救う為に。どうしても。どうしても、私にはそれが必要なのです……」

 罪の意識に苛まれながらも、その願いをスズリが口にせずにはいられなかったのは、それが、彼にとって、本当に切実なものだったから――


――この命を……


 この命は、とうに捧げられなければならなかった命だ。自分が生き永らえたことと引き換えるようにして失われた、数多の命を思うと、それはいつも重たく美玻に圧し掛かって来る。償われなかった罪は、他人より咎なしと言われたところで、美玻の中で決して消えることはなかったのだ。


――今ひとたび……


 自分は、罪を償う機会を与えられた。そんな気がした。

 髪に、水滴が落ちた気配がした。

「……泣いて……るの……?」

「……そんな筈……ありません……私はもう、泣き方など忘れた人間なのですから……」

 しかし、頭上で聞こえた否定の声は、随分と湿り気を帯びた音だった。

「……いいよ」

「美玻……」

「……あたしは……スズリに救ってもらったから……こんなあたしが、あなたの役に立ことがあるのなら…………いいよ……」

「……」

「あたしは……本当に駄目な人間で……他の人に迷惑を掛けて、足手まといになるばっかりで、生きていたって誰の役にも立てないって思ってた。遠見の能力だって、ただ見えるというだけなのに、それが国の行く末を左右する程の重要な力だとか言われて……それが本当に重くて苦しくて辛かった。いつもいつも、ここから逃げ出せたらいいのにって、そんなことばかり考えてた。それでも……スズリが一緒にいてくれたからあたしは、きっとここまで来られたんだと思う。だから……スズリの為になら……もう全てを終わらせても、構わないって……思う」

 そこまで言った所で身を離されて、スズリの手が両肩に乗せられた。

「……済まない……」

 そう告げた声は、消え入りそうに静かで、美玻の顔を映した瞳は、艶やかに潤んでいた。この人はやはり、泣いていたのだと、そう思った。でも、それには気付かない振りをして、多分、そうするのが一番いいのだろうと思いながら、美玻はスズリに対して笑ってみせた。

「……ううん。ねえ、スズリ……」

「……」

「今まで、ありがとう……」

 その温もりを記憶に留めるように、美玻はもう一度、スズリの胸に顔を埋めた。躊躇う様にそっと背に回された腕は、やはり微かに震えていた。

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