第34話 闇夜の咆哮

 火を熾し、肉を焼き始めた頃に、洸由と美玻は立て続けに目を覚ました。それぞれが、互いに触れて欲しくないものを抱え込んだ結果、とでも言おうか、夕餉の間は核心を避けた当たり障りのない会話が、ポツリポツリと空しく続くばかりとなった。


 自身の後ろめたさからなのか、洸由は自分を殴ったのが誰なのかを、あえて問い質すことはしなかった。沖斗は、生真面目すぎるその性格ゆえに、いずれは洸由に自身の行いを告白し、謝罪を申し入れるのだろうが、それによって、彼は洸由の元を去らなければならないのかも知れず、その心の整理が付かずに、すぐには真実を言い出せずにいる様だった。


 美玻は柘榴を抱え込んだまま、じっと身を丸めて座っていた。声を掛ければ反応はするものの、魂が抜け落ちてしまった様に、始終ぼんやりとしていた。


――風花が下りなくとも、この旅はもう、終わりなのかも知れない。


 スズリは焚に薪を差し込みながら、場を支配するぎくゃくとした空気に、そんなことを思った。

 陽が落ちると、急に寒さが増して、いくら薪をくべても暖かくならない。今夜も冷え込みそうだと思った所に、風花が又ふわりと下りてきた。


――いや、これは……

「……雪だ」

 スズリの声に、残りの三人が天を仰いだ。


 墨を流し込んだような、のっぺりとした闇の中から、綿毛のような白い雪が次々に舞い落ちる。そこにいた誰もが、夜のしじまに舞う雪に、この旅の完全なる終わりを思った。


 しかし、運命の刻は、その流れを止めることは無かった。

 そこに間合いを計ったように、その咆哮は響いた。


「なに?」

 美玻が怯えたように、柘榴を抱いたまま腰を浮かせた。

「……まさか、龍の声か」

 洸由が立ち上がる。

 勿論、そんなものを耳にしたことのある者はいないのだが、ここで、それ以外の可能性を考える者は誰もいなかった。しんと冴え渡るような静寂の中で、一同は息を殺し、耳を澄ました。


――もう一度……どうか、もう一度。


 誰もがそう願った時、再び怖ろしいばかりの咆哮が響いた。今度はそれに更に数度、小さな咆哮が続いた。

「どっちだ?どちらからっ……」

 音は谷間に反響し、残響が幾重にも混ざり合い、どちらの方向からも聞こえてくる。それぞれ、必死に四方を見渡すものの、音の出所は特定出来ない。しかし……

「あ……」

 やがて、美玻が闇空の一点を見据えて立ち竦んだ。残りの者は、引き寄せられるように一斉にそちらに視線を向け、そろって息を飲んだ。


 光が、眩い金色の光の柱が、天に向けて伸びていく。

 幾筋もの光の帯が、力強く真っすぐに長く長く伸びていく……。

 その神々しいばかりの輝きを、彼らはしばし声もなく見上げていた。

「子龍の天還あまがえりだ……」

 やがてスズリが発した言葉によって、彼らは現実に引き戻された。


 龍が夏至に天より下るのは、その繁殖のためであり、冬の訪れを前に、生まれた龍の子は、ああして天に還って行く。そして子を産んだ親龍は、それを見届けるとその生を終え、その躯はやがて石となり、大地に戻るのだと。

 スズリは鴻にいた頃、そう記された文献を読んだことがあった。そして、霊薬と呼ばれる鱗は、龍が生きている内に剥ぎ取られたものでなくてはならない……


 スズリが天還りについて、おおまかに説明すると、洸由は光の残像の残る空を睨んで、意を決したように言った。

「この山向こうだな。行くぞ」

 薪を幾つか束ねて即席に作った松明を手に、躊躇うことなく闇を切り開いて進んで行く洸由に沖斗が続き、それをスズリと美玻が追った。彼らは闇に閉ざされた暗い山道を、夜通し歩いた。


 途中、野生動物の双眸が妖しく光る様に出くわす度に、美玻は小さな悲鳴を上げたが、それでも彼らの足が止まることは無かった。今や彼らは、龍という存在に完全に憑かれてしまっていた。その姿を一目なりとも見ないうちは、帰る訳にはいかない。ただ、そんな思いに突き動かされるように、ちらちらと雪の舞う中、夜の闇を歩き続けた。



 いつしか空は白み、気が付けば辺りは朝霧に覆われていた。そこで、行く先を見失った洸由が足を止めた。雪はすでに止んでいた。山の稜線には出たのだろうが、一面白い靄の他には何も見えない。美玻も目を凝らすが、ぼんやりと切り立った崖が入り組む地形が見えるばかりである。下手に動いて足を踏み外せば、ひとたまりもないような場所だ。

「陽が昇れば、恐らく霧も晴れて来ましょうが……」

 スズリが致し方ないというような口調で言うのを、洸由は苦虫を噛み潰したような顔で聞いている。子龍はすでに天に昇ってしまったのだ。親龍の余命が、一体あとどのぐらいあるのか。一刻を争うというのに、自分たちはここで時を失わなければならないのかと忌々しく思う。そんな洸由の様子を察したように、スズリが言った。


「……仕方ありませんね。少し、辺りを見て参りますよ」

「スズリ?」

 美玻が心配そうにその名を呼ぶ。

「大丈夫、こういうのには慣れていますから……沖斗、ここは頼みますよ」


――美玻を頼む。

 沖斗はそういう意味に取って、小さく頷いた。そしてスズリの姿は、あっという間に霧の中に消えて行った。


 どれ程の時間が経ったのだろうか、スズリは一向に戻って来ない。もしかして、足を踏み外しでもしたのではないだろうか。そんなことを考え始めてしまうと、不安は消しようもなく広がって行く。美玻は、ついには立ち上がって、少し薄くなり始めた霧の先に、スズリの姿を探し始めた。するとすぐに、だいぶ先の崖の上ではあるが、スズリが佇む姿を見つけた。

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