第33話 傾いた天秤

「……怖いか」

「……」

「そう、怯えたような顔をするな。乱暴にはしない」

 そんな言葉と共に、今度はさっきよりも、深く丁寧に口づけられる。同時に、洸由は美玻の内腿に指を這わせ、そこを撫で上げていく。経験のない感覚に、美玻は思わず身を震わせた。膝を閉じようにも、すでに洸由の体が美玻の両足の間に割って入っており、それは叶わない。

「……やだ……やめて……」

 ようやく口づけから解放されて、喘ぐように言ったものの、そんな願いが聞き届けられる筈もない。そうこうするうちに、その冷たい手が下半身を弄り始め、ゆっくりと秘所に近づいて行く。ゾクリ、と言いようもなく嫌な感覚に捉えられた。瞬間、恐慌に陥る。

「やだっ……や……はなしてっ……洸由っ、はなしてよっ……ばかっ……やめて……いやぁ……」

 自分の上に圧し掛かる洸由の体を、夢中で押しのけようとするが、いくら暴れても、秘所に近づいて行く指は止まらない。これから何が始めるのか。そう思うだけで、止めようもなく恐怖がせり上がって来る。

「……い……や……」

 目から涙が零れ落ちる。

 叫べば、誰か……スズリか沖斗が助けに来てくれるかも知れない。そう思うものの、恐怖に慄いた体は、もう普通に声を発することすら出来なくなっていた。自身の無力と絶望を感じた。空の赤が滲んで揺れた。


――誰か助けて……神様……


 堅く閉じた瞳の闇の中で、美玻はただ祈っていた。洸由の体が更に重みを増して、美玻の上に圧し掛かるのを感じる。


――苦しい……息が出来ない……神様どうか……どうか……


 ふっと、体を押さえつけていた重みが、消え失せた。

「……え」

 何だか分からないが、終わったのか、と思う。美玻が恐る恐る目を開けると、傍らに気を失った洸由の体が横たわっていた。

「え……」

 その洸由の横には、鞘の付いたままの刀を手にした沖斗がしゃがみ込んでいた。

「……申し訳ありません。洸由……様」


「沖斗……?」

――が、助けてくれたの?


 状況から察するに、洸由は沖斗に刀で殴り倒された様だ。それも、一撃で気絶するほどの勢いで……。つまりそれは、洸由には絶対の忠誠を捧げていた筈の沖斗が洸由を……ということになるのか。美玻が、訝しみながら身を起こすと、沖斗と目が合った。

「あの……」

 言いかけたところで、そのまま沖斗に抱き竦められた。

「……無事か?」

「……うん……ありが……」


――あれ……前にも……こんなコト……

 耳元で安堵するようなため息が聞こえた。

「……無事で……よかった」

――ああ、あの夜の……


『無事かっ?美玻……無事で……よかっ……』


――あれ……沖斗だったんだ。

 沖斗は自分を守ってくれる存在なのだ。

 不意にそう納得すると、安堵と共に美玻の意識は遠退いて行った。



「美玻……?」

 またずしりと重くなったと思ったら、美玻は沖斗の腕の中で気を失っていた。

「あーあ、これはこれは……」

 後ろから聞こえた声に振り向けば、足元に柘榴を連れたスズリがそこに立っていた。

「やってしまいましたねぇ……これは。どうします?私が殴ったことに、しておきましょうか?」

「……どういう」

「だって、仮にも主君なのだろう?いくら無礼講とはいえ、拙いんじゃないの?無礼講とはいえ、美玻を押し倒した洸由が、全面的に悪いにしろ」

「……自分のしでかしたことの責任ぐらい、自分で取る。元より覚悟は出来ている」

「……前々から思ってたけど、お前、美玻が好きなんだろう」

「そっ……んな訳あるか。俺はっ……」

 動揺に無様に揺らいだ言葉が、隠された感情をそこに引き摺り出す。美玻を大事そうに抱いたまま、沖斗は気まずい顔になって俯いた。

「……とりあえず、運ぶか」

 スズリはそれ以上の詮索をせずに、気を失っている洸由を軽々とその背に負った。それを見て、沖斗が眉間に皺を寄せた。


「……お前」

 筆より重い物は持てない――のではなかったのか、この絵師様は。

「人は誰でも、他人には言えない事情を諸々抱え込んでいる、と。まあ、そういう事だね。お前さんも、然り。この私も、また然りだ。だから、事情は聞かないよ。まあ、興味もないしな。でも、洸由には内緒にしてくれるとありがたい。下手にばれると、荷物を持たされそうで面倒だからな」

 スズリが口角を軽く上げて笑う。スズリの秘密を明かさなければ、自分も沖斗の秘密は明かさない。そういうことらしい。わざわざ、そんな条件を持ち出したその真意は分からない。


――こいつ、何者だ。


 洸由を背負い、スズリはその場を離れていく。柘榴はまだそこにいて、どこか物言いたげな様子で沖斗をじっと見ていた。

「……ただ側にいて、守っていられればそれでいいと、そう思っていたのにな」

 猫なぞに愚痴をこぼしてどうするのだ。そう自嘲しながらも、はち切れんばかりに膨らんでしまった思いは、次々と言葉になってその口から零れおちる。

「……我慢できなかった。美玻が誰かのモノになる……なんて……俺には耐えられなかった……こんな 身勝手な思いを向けられたって、美玻には迷惑なだけだと分かっているのに……ホント仕様がないな、俺は……仕様がない……」

 今にも泣き出しそうな顔をして、沖斗は美玻を抱き上げると、項垂れたままスズリを追っていった。

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