第32話 凶行

 カサリ、と、また下草が鳴り、スズリは我に返る。音のした方へ目をやると、ちょうど長い尻尾が巻き上がって、猫が逃走体勢に入った所であるのが見て取れた。

「逃がすまじ」

 スズリはそう言い放つと、八つ当たりのように、猫の尻尾を勢いよくがしっと掴んだ。


(いってぇ……お前少しは加減ってもんを……)

「盗み聞きとは、いい度胸じゃないか」

(たまたまだよ。たまたまたまたま……)

「うるさい、黙れ。美玻はどうした?一緒じゃなかったのか……」

(洸由に邪魔だって、追い払われたんだよ)

「洸由?」

(お前もひどいが、あやつも大概だ。尻尾を持って投げ捨てるとか、非道の極みだ)

「投げ捨て……って、虫の居所でも悪かった訳か」

(というか……コトを前に、単に気持ちが昂ぶっていたんだろうが、それにしても……)

「コト?」

(ああ……美玻を、自分のものにするのだそうだ)


「な……?何でいきなり、そんな剣呑な話になっているっ?」

(知るかよ。男のサガってやつなんじゃないの?こーんな過酷な旅を続けてりゃぁ、気持ちも荒んで来るだろうし、身近な所に捌け口を求めても、何ら不思議はないだろう)

「馬鹿を言うな。そんなことをして、美玻が又、心を閉ざしてしまったら、どうする積りだ」

(体を手に入れてしまえば、その心も間違いなく自分のものになる。そんな幻想を信じているのかも知れぬな、あ奴は)

「洸由の考えなど、どうでもいい。さっさと奴のいる場所へ案内しろっ」

(……お前。あの娘のことなど、只の道具ぐらいにしか思っていないのではなかったのか)

「だから、その道具に不具合が生じたら困るんだと、そう言ってるんだよ、私は。ぐだぐだ言ってないで、とっとと案内しろっ」

(ならお前はっ、その手を離すのが先だろうが)

 文句を垂れると、尻尾の拘束が解けた。柘榴はそのまま振り向きもせずに、林の方へ走り出した。


――そんな理由で、洸由を止めに行くというには、伝わって来る動揺が大きすぎるんだがな。

 そんな言葉が、スズリに伝わることは、もうなかった。




 美玻は薪を集めながら、時折、梢を見上げては、自然の織り成す紅葉の美しさに見入っていた。朝に風花が舞ったせいだろうか、陽の当らない場所に入ると、肌を滑る風が冷たく感じられた。


――冬が来る。


 当たり前の様に巡る季節のことを、旅の間は考えたこともなかった。

 この数カ月、慣れない生活に、ただ夢中で。

 この旅に終わる刻が来ることを、考えたこともなかった。


 冬に探索は出来ないから、龍が見付からなくても、旅は終わるのだと、初めて聞かされた。龍が見付からなければ、来年もまた、この辛い旅に出なければならないのだろう。だが、その前に休息の時間が与えられる。そう聞いて、張り詰めていた気持ちが、随分と楽になった。


――いつかは……終わりがあるのだ。


 今は辛いけれど、いつかは終わる。そう気付けたことが、何だか嬉しかった。


 パキっと、背後で枝を踏む音を聞いて、美玻は振り返った。

「洸由……?」

 その姿を確認するかしないかという間合いで、その腕はもう、美玻の体を抱き竦めていた。

「……洸……由……?」

 スズリとは異なる温もりに、戸惑いが生まれる。

「どう……したの?」

 そう問うと、頭の上から少し掠れたような声がした。

「……俺のものになれ」

「えっ?」

「あんな浮草のような絵師ではなく、比奈の王子である俺のものに、なれ」

「何言って……」

 言いかけた口が、いきなり塞がれた。

 唇に、これまでに感じたことのない感触を覚える。


――な……に……

 そう思う間にも、生温かく柔らかいものが、唇の間から差し込まれて来る。

――や……


 抗うように背けた顔は、洸由の手によって捕らえられて、再び美玻の唇は塞がれた。口づけをされているのだと、ようやく思い至る。


――どうして洸由がこんなこと……


 困惑と恐怖に、美玻は身を捩って逃れようとするが叶わない。洸由の腕に腰の辺りを捉えられたまま、体が仰け反る様に倒されて、足が地面から浮いたと思った時には、湿った落ち葉が積った土の上に横たえられていた。


――いっ……


 抱き竦められた時に取り落とした枝が、背中をこすり、美玻は顔を顰める。

 頭上には、茜色の空が広がっていた。

 そして、目の前に、怖い程に真摯な目をした洸由の顔があった。

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