第31話 引けない理由

 津澄ツスミは、鴻国の第五皇子である。

――だった、と言うべきかもしれない。


 彼は、後宮の妃の一人と関係を持ったという理由で罪に問われ、その地位を追われた。今は獄中で生きることを余儀なくされている。その事件は、スズリの人生も大きく変えた。というのも、その妃が、スズリの母であったからだ。


 当時それは、敵の多かった津澄を失脚させる為の謀略だったのではないか、とも言われていた。津澄の清廉な人となりを鑑みれば、彼がそのような暴挙に至るとは、到底考えにくかったからだ。スズリ自身も、母と津澄の無実を信じていた。

 何よりスズリにとって、津澄という兄は、彼が最も尊敬し憧れた存在であったのだ。大勢いる兄弟の中で、津澄は事更に自分に目を掛け、かわいがってくれた。そんな津澄が、よりによって自分の母を貶しめるようなことをする筈がない。微塵の疑いもなく、スズリはそう信じていた。そして、真実が必ず明らかにされる筈だと、そう信じていた。


 たが、下された裁可は覆らず、スズリは母を失い、宮廷に居場所を失った。皇子という身分こそはく奪されなかったものの、身近に擁護者を失った彼は、宮廷の闇に飲み込まれ、誹謗中傷の嵐に容赦なく晒されることになった。そして心に癒しようのない傷を負い、生きる気力をも失った。


 そんなスズリに救いの手を差し伸べてくれたのが、燥怜だった。

 やがて燥怜に命じられて、スズリは各地を旅する様になった。そうして兄が、自分を宮廷の闇の中から解き放ってくれたお陰で、自分は立ち直ることが出来たのだと、今では思っている。それでも、未だ囚われたままの津澄の存在は、太い楔となってスズリの心を貫いたまま、その痛みが消えることはなかった。そして、自分ばかりが救われたことに対する罪悪感はやがて、自分が燥怜に救われたように、今度は自分が津澄を救うのだという、強い決意に変わって行ったのだ。



「どうして……私はっ……あの方を光射す場所へ戻して差し上げるのだと……ただそれだけを願って、こんな所まで来たと言うのに……なぜ、兄上はそれを……分かって下さらないのか」

「涼璃様……」

 鴻では、スズリのこだわる事件は、もうすでに過去のものとして封印されている。その封印の上に、今の宮廷の体制が形成されて、世界は淀みなく動いている。つまり、その封印を解くということは、世に混乱をもたらす以外の何ものでもない。


 燥怜は、それこそがスズリの望みだと言った。

 剣呑な話だと思う。

 商人としての立場から言わせてもらえば、鴒帆もスズリの側に立つことは出来ない。それに……


――涼璃様はご存じないのだ。津澄様が、宮廷で現在どのような場所に立っていらっしゃるのかを。


 その部分に関しては、燥怜から固く口止めされているから、申し訳ないが、それをスズリに打ち明けることはしない。商人である鴒帆にとって、彼の店の一番の上客である燥怜の言葉は、絶対なのだ。


「……戻れるものか。夢物語などではない。この私は、龍の鱗を手に入れる術に辿り着いたのだ。それを目前にしながら、戻れる筈などない……」

 思い詰めたように呟くスズリを、鴒帆はただ見据えるばかりだ。

「そうだ鴒帆、お前は私に会う事が出来なかった。そういうことにするのだ」

 いかにも良案を思い付いたというような顔で、何を言い出すのかと思えば……。

 鴒帆は軽くため息を落とす。

「……無茶言わないで下さいよ」

「鴒帆、お前は、この世界が変わる様を、見てみたくはないか?大王の玉座に居座る忌まわしき悪霊が討ち払われる瞬間を、見てみたくはないのか……」


――結局、このお方も憑かれてしまっているのか……己の業という奴に。


 一度、地の底に叩き落とされた経験を持つ者は、得てして、その代償を求めるように、自らの手の届かないものにまで手を伸ばそうとする。


――世の中に、どうしようもないことなど、一体どれだけあると思っている。道理の通った正しきことのみで形成される世界など、幻想でしかないのだろうに。


 最後の最後まで、そのことに気づけなければ、待っているのは破滅だけだ。



「……私は、一介の商人ですよ。そんなものに興味はありません。今回は燥怜様のご伝言を、涼璃様にお伝えすること。そこまでで、私の仕事は終わりです。無理やりにでも連れ戻せとは言われていないですしね。確かにお伝えはしましたからね。後で聞いていなかったとか、言わんで下さいよ。私の商人としての信用に関わりますから。聞いた上でお戻りになられない、というのはあなた様の勝手。つまり、こっから先は、涼璃様の責任ですからね。この先、あなた様が、何を手に入れようが、何を失おうがご自由ですが、俺に責任転嫁などなさらないで下さいね。そこん所、くれぐれもお願い申し上げておきますよ。それでは……」

 鴒帆はさっさと話を切り上げると、そのまま藪の向こうに姿を消した。


「……相変わらず、よく口が回るな、あいつは」

 全く有り難くない情報をもたらした商人を、スズリはただ恨めしそうに見送ることしか出来なかった。今更、戻れはしないのだ。スズリの心はもう決まっている。


 ただ、このまま戻らなければ、スズリは燥怜という味方を、確実に失うことになるだろう。ただそれだけが、心にわだかまりを残した。


――また、一人か。


 それでも、自分は行かねばならないのだ。

 母の失った名誉を取り戻すには、津澄を救い出すしか方法がないのだから。

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