第37話 生と死の狭間

「美玻ぁーーっ!」

 絶叫とも言える声が辺りに響き渡った。


 その声は、美玻の意識を乱暴に現実に引き摺り戻した。何事かと確認する間もなく、美玻の体は衝撃に弾き飛ばされ、宙に投げ出された。驚いて見開いた瞳の中で、雲ひとつない蒼い空が回った。そして、手首に強い痛みが走る。

「……いっ……」

 状況が飲み込めないまま、その痛みの元になっている手を見上げる。


 崖の上で、誰かの手が、美玻の手を掴んでいた。背を嬲るように吹き上げた風に、美玻はようやく自分が絶壁に宙釣りになっているのだと気付く。目の前を掠めて落ちて行った小石が、遥か下方の水面に吸い込まれるようにして消えたのを見て、反射的に背筋を悪寒が走った。

「……無事……かっ……」

 頭上で沖斗の声がした。

 美玻は驚いて顔を上げる。崖の上に沖斗の顔があった。

「沖斗っ?……どうして……」

「……いいか、美玻。俺は……こんなところで龍に喰わせる為に、お前を助けた訳じゃない……お前に生きていて欲しかったから…………」

 そこで沖斗が喘ぐように息を切らし、苦しそうに顔を歪めた。

 その口の端から、血が零れ出して筋を描いた。


「どうしたの……沖斗っ!」

 只ならぬ気配に、美玻の心を動揺が走る。沖斗が今いるのは、さっきまで自分がいた場所だ。それが何を意味するのか――

「……何でお前は、こんなにあっさりと死のうとするんだよ……せっかく救われた命を、大事にしない……何で、きちんと生きようとしない……」

「……沖斗……」

「……生きろよ、美玻……頼むからっ……生きてくれよ……」

 その言葉の間にも、沖斗の体から流れ出た血が、掴まれた手首を伝い落ちて来る。その生温かい赤い筋が、幾本も糸のように伸び、美玻の手に絡みつく。

「……沖斗っ……何で……何で沖斗が……こんな……」

 答えは無かった。代わりに、ぽたぽたと赤い雫が、美玻の顔に、体に降り注いだ。

「やだ……沖斗……」

「……生きろ、美玻っ」

 短く繰り返される呼吸の合間に、沖斗の声がそう告げた瞬間、美玻の手首を掴んていた手が、痙攣するようにびくりと震えた。

「沖っ……」



――お前は俺の……かけがいのない……美しい光……だから……

 最後に――そう聞こえた気がした。

 涙で滲んだ視界の中で、沖斗の顔はどこか穏やかに笑っていた。



「沖斗ぉっ!」

 美玻の悲痛な声を飲み込むように、辺りに強烈な閃光が走った。世界はその白い閃光に飲み込まれ、その中に沖斗の姿も消えた。


――どう……して。


 考える間も与えられず、美玻の体は絶壁を落下し、そのまま激流に飲み込まれた。上も下もなく、容赦なく体を転がされ、ろくに息を吸うことも出来ない。


――また、自分のせいで、命が失われた。


 美玻の心に、どうしようもない悲痛な実感があった。鉛のように重い事実が、胸に容赦なく捩じり込まれ、美玻から気力を奪っていく。自分が目を閉じているのか開いているのかさえも、分からない。閃光に奪われた視力は、ただ世界を白く霞んだものにしか見せてはくれなかった。



――沖斗が死んだのに……自分だけが生き残るなんてない。


 ……何でお前は、こんなにあっさりと死のうとするんだよ……何で、きちんと生きようとしない……


――どうして、生きなければいけないの、こんな辛い……思いまでして……


 ……生きろよ、美玻……頼むから……生きてくれよ……


――何で……こんなのひどいよ……沖斗。


 ……生きろ、美玻っ……


――嫌……もう嫌なんだものっ……



 やっと、重たい運命から解放されると思ったのに。

 自分は、まだ逝くことを赦されないのか――

 大きな失望が生への執着を消していく。


『美玻、無事で良かった』


 不意に、その声がはっきりと聞こえた。

――沖……斗……


 見えない筈の目が、その姿を見つける。

 水の中に居る筈の体に、沖斗にしっかりと抱き寄せられた時の温もりが蘇る。

 そして気付く――


 その腕に込められた思いに。

 自分は、ずっと守られていたのだと。

 沖斗は自分をずっと見守っていてくれたのだと。

 自分の命は、そんな風に大切に守られてきたのだと。

 

 そんな風に、沖斗が大切に守ったものを、自分は手放すのか。手放していいのか……

 このまま死んだら、自分は沖斗の最後の願いを踏みにじることになるのではないか。


――ああ……生きなきゃ……いけないんだ……あたしはまだ……死ねない……


 そこで我に返った。

 途端に、激流の中を踊る体と、呼吸もままならない現実が突きつけられる。

「ごほっ……」

 苦し紛れに息を吸おうとして、思い切り水を飲んだ。喉が押し潰されるような感覚に、すでに気が遠退き始めている。


――このままじゃ……


 もう、何が何だかわからないままに必死にもがいた。すると、手が何か細長いものに触れた。縋る様にそれを掴む。朦朧とした意識の中、水に差し込んだ光の中に、微かに柘榴の色を見たような気がした。美玻の意識はそこで途切れた。

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