第3話 救出

 失意に項垂れていると不意に、額にぬるりとした感触があった。反射的に背筋に悪寒が走る。


――な、何?


 すぐ近くに、何かの気配を感じた。小さくて生温かく湿ったものが頬の辺りに押し付けられ、同時に鼻孔に獣臭い呼気が広がる。


――何かの……獣……?


 ふんふんという短い呼吸を繰り返しながら、ソレは鼻先を押しつけて獲物の様子を確認している……そんな感じだろうか。

 犬のような狼のような……そう考えて、そこまで大きい獣が、ここに入り込むのは無理そうだと思う。積み上げられた岩の隙間から入ってきたのだとすれば、自分に危害を加えられる程大きな獣ではないだろう。そう気付いて、少し安堵する。ならば、鼠か猫か……


「いやだ、くすぐったいってば……ひゃぁあうぅ」

 言った側から鼻先をぺろりと舐められた感触に、美玻は思わず素っ頓狂な声を上げた。すると、ぴんと張り詰めていた緊張の糸がふっと緩み、気が付けば可笑しさに口元を緩めている自分がいた。

「変なの……あたし、笑ってるなんて……」


――こんな所で。こんな時に。本当に変だ。


 変と言えば、目隠しをしている布の向こうに、暖かな朱色の光を感じ始めていた。ゆらゆらと揺れるそれは、目の前で次第に大きく膨らんでいく。


――ああ、そうか……


 もしかして、死ぬっていうのはこういうことなのかと思う。

 それならば、変なことも大歓迎だ。だって、どうしたって、痛かったり苦しかったりというのは嫌だから……

 だから、こんな風に穏やかなままで逝けるのなら……

 逝けるのなら……


「無事かっ?美玻」

「……え?」

 誰だと思う間もなく、肩に手が掛けられて少し乱暴に体を引き起こされた。そのまま体を抱き寄せられると、耳元で安堵のため息……のようなものが聞こえた。

「……無事で……よかっ……」


――誰?


 体が抱きあげられた気配がして、それに狼狽したせいで、その問いを口にする暇はなかった。下ろせと言う前に、美玻の体はひんやりとした岩の上に座らされ、何が何だか分からないままに、今度は手と足とに、数人がかりが同時に縄を解いて行く気配がした。そして、美玻の体は直ぐに自由になった。


――あたし……いいのかな。生贄なのに……外に出ても。


 戸惑いながらも、まだ少し痺れの残る手で目隠しを外そうと、両の手を頭の後ろに回す。だが、その結び目は思いの外固い。美玻が、なかなか解けない結び目に難儀していると、その手が誰かに掴まれて、膝の上に置かれた。そして、誰かの手が頭の後ろで結び目を解く感触があって、すぐに目を覆っていた布が取り払われた。


 初めに目に入ったのは、近くで揺れる松明の光で、その眩しさに美玻は目を細める。と、

「お前が、遠見の娘か」

 目の前でそう訊く声がした。慌てて視点をそちらに合わせる。まだ良く見えていない目に、ぼんやりと男の顔の輪郭が映る。


――誰?


 その顔を確認しようとして、眉間に皺を寄せる。すると、目の前の人物から軽い失笑ともいうべき気配が伝わって、美玻は気恥ずかしくなって赤面する。


――あ、たし……そんな変な顔した?


「無理に見ようとするな。目が慣れるまでは、しばらくぼやけたままなのだろう」

 見えないままなのは落ち着かなかったが、そう言われてしまっては、自然に元に戻るのを待つしかない。それにしても……

「……あたし……どうして?」

 この状況は、助けられたと言っていいのだろう。だが、祟り者である自分が生贄にならなければ、郷に災厄が降りかかる。自分が祠を出てしまったら、郷はどうなるのか。そんな不安が生じる。

「訊いているのは、この私の方だ」

「……はい」

「そなたは間違いなく、遠見の娘なのか?」

「……そうです」

「よし、上々だ。沖斗オキト、この娘を馬に乗せよ。我らにもまだ、運は残っているようだ」

「承知致しました、洸由コウユウ様」


――コウユウ……サマ……?


 その名には覚えがあった。比奈王の何番目だかの息子の名だ。何となく尊大な物言いをすると思えば、そういうことなら納得出来る。洸由は立ち上がると、美玻の側から離れて行く。代わりに、洸由に声を掛けられて、暗がりで控えていた少年……沖斗が姿を見せた。

「……立てるか?」

 声を掛けられて頷き、立ち上がったものの、足を踏み出した途端に、美玻は小石を踏みつけてよろめいてしまった。すると、腕が掴まれて体が支えられる。

「ありが……とう」

 見上げた沖斗に表情はなく、美玻が体勢を立て直すか否かという間合いで、その手はすぐに離される。

 そして――

「もたもたするな、行くぞ」

 固い声を残して、沖斗は踵を返し、松明を掲げて待っている仲間の方へ足を向けた。


――ああ、そうか……


 この空気には覚えがあった。この五年、嫌という程感じ続けていた空気。社守の婆の元にやって来る人々は例外なく、こんな空気を纏っていた。


 祟り者には関わりたくない。

 祟り者は怖ろしい。

 そう思っている者の纏う空気だ。


――そうだよね。


 関われば、関わった者もまた祟りを受ける。そう言われているのだから、それは当然のことだった。


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