第2章 王女の絵師
第9話 第三王女、波紅
「……洸由。よもや、お前は遠見を失った責を逃れようと、遠見ではない者をここへ連れて来たのではあるまいな」
背後から、洸由のすぐ上の兄である第四王子、
日頃、自分よりも何かと目立つ弟を目ざわりに思っていた瀬津は、その失態を見つけるや、嬉々として追い落としを始めたらしい。そんなあからさまな揚げ足取りに、洸由は唇を噛む。娘がこのまま何も言わなければ、洸由に反論する術はない。
元々小さな体を、小動物のように更に小さく丸め、頑なに全てを拒むような娘の姿勢に、洸由は困惑と苛立ちを抱えたまま、ただ立ち竦むばかりだ。
この状況に、比奈王はどう裁可を下すのか。張り詰めた空気がその場に流れていた。
そこへ――
「全く、洸由兄さまのなさり様は、粗雑でいけませんわ。かわいそうに、娘が怯えているではありませんか」
そう言って露台の入り口に姿を見せたのは、第三王女の
陽に焼けることを嫌ってなのだろう、波紅は庇の影の落ちる際へ立ち、それ以上は近づいてこない。
洸由よりも三つ下の妹であるが、その性格は案外したたかであり、油断のできない相手であった。女にしてはややきつい気性ゆえに、もう二十を数える年となっても、未だ嫁ぎ先が決まらない。女子は王位を継げないから、洸由がこの妹を競争相手に数えることはないが、もし彼女が王子であったなら、好敵手となったであろうと思う。
「畏れながら申し上げます、陛下」
波紅が広間へ向き直って膝を折り、比奈王へ奏上の許しを求める。広間の奥からそれを許す旨の言葉が返ってくると、波紅は透き通った綺麗な声で、自らの考えを申し述べた。
「私の抱えております絵師で、スズリと申す者がおりますのはご承知のことと存じますが……この者は、物腰は柔らかく、心細やかな配慮も出来、そして何より、その筆で描けぬものはないという、誠に才長けた者にございます」
――絵師、だと。
洸由は、波紅の話に眉を顰める。
その絵師ならば、良く知っている。絵の才は確かに目を見張るものがある。しかし、洸由の印象はあまり良いものではない。女ならば、例外なく見惚れてしまうような美丈夫で、性格も穏やかな優男であり、愚かにも、そんな男にこの妹は入れ上げているという。常に側に起き、身の回りの世話のみならず、夜伽までもさせていると、そんな噂までも耳に入っている。
一度、その件に関して、宰相から王へ苦言が奏上されたが、絵師の類まれな才を手放すことがいかに国の損になるかという波紅の巧みな弁明が功を奏し、絵師に関しての事は些事であるとして捨て置かれた。実直な宰相は、それに関して、未だに不満を漏らしているという。
「その者に、この娘と話すことをお許し頂けますれば、娘の見たものを寸分違わず描いて見せることをお約束いたしましょう」
もし、波紅の言うように、絵師が娘の見たものを描くことができれば、この王宮において、もはや絵師の存在をとやかく言える者はいなくなるだろう。
――しかし、絵師ごときに。
自分の足元でうずくまったままの娘を見下ろして、洸由はまだ半信半疑だ。しかし、王は波紅の突飛とも言える言い分を認めた。そして、広間の後方に控えていた絵師が、波紅の呼び出しに応じて姿を見せた。
相変わらずの涼やかな顔で、口元には穏やかな笑みを浮かべている。そんな男が洸由の元に近づいてくる。洸由が苦虫を噛み潰したような顔をして脇へ避けると、
「失礼いたします」
と、洸由に対して礼儀正しく頭を垂れて、絵師スズリは美玻の側へ膝を付いた。
「ご気分はいかがですか?」
スズリはまず、そう声を掛けたが、反応はない。
「ここは日差しが強うございますね。宜しければ、あちらの日陰へ参りましょうか。お立ちになれますか?手をお貸し致しますか?それとも、抱き抱えてお運び致しましょうか……」
言いながら、美玻の肩にそっと手を置いた。それに反応して、美玻が僅かに体を強張らせた。
「大丈夫、何も心配はいりません。私は、波紅様にお仕えしております絵師で、スズリと申す者です……」
「……絵師……さん……?」
美玻が顔を伏せたまま、小さく声を発した。
「スズリです」
「スズリ……様……」
「いえ。私は、あなたと同じで、官位など特に持たぬ身ですから、どうか、そのままスズリ、と」
「……スズリ……?」
「はい……あなたのお名前を伺っても構いませんか?」
「……あたし……は……」
美玻の声がそこでふっと途切れて、その体が傾いでスズリに寄りかかった。
「……この暑さに、気を失われたようです。この娘を、涼しい場所にお移ししても宜しいでしょうか?」
顔を上げたスズリに洸由が頷くと、美玻の小さな体はスズリに抱き上げられて、日陰へと運ばれて行った。そして、波紅の命で程なく長椅子が運ばれてくると、そこへ横たえられた。傍らに付き添う形で脇に座ったスズリが、運ばれて来た冷水に布を浸し、丁寧にその顔を拭い、額を冷している。
美玻の存在はもう完全に洸由の手を離れ、波紅の手の内に入ってしまったと言えるだろう。洸由は口元を歪めて、そんな状況を見据えていた。
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