第5話 沖斗

 湿り気のある暖かい……というよりも少し暑さを感じるほどの、どちらかと言えば不快な空気に全身が包み込まれた感覚に、美玻は意識を取り戻した。

 白い湯気の立ち上る中を、脇と足とを誰かの手に支えられながら、美玻の体は運ばれて行く。肌を撫でた湯気の感触に心許なさを覚えた瞬間、自分が着衣を何ひとつ身につけていないことに気づく。


――えぇっ?あたし何で裸っ!?


 ぽちゃん。尻が温めの湯に触れた。

「ぅえっ……」

 珍妙な悲鳴を上げるよりも先に、ざぶりと全身が湯に落とされた。

「な……っ?」

「ああ、気が付いたわね……」

 背中で若い女の声がして、脇を支えていたらしい彼女の腕が抜き取られる。

「良かった。これで少しは仕事がやり易くなるわ。目が覚めたなら、あなた一人でも平気ね、ユウラ?私は着物の用意をしてくるから」

「了解です、ナミさま」


 ナミと呼ばれた若い女は、そのまま湯気の向こうに姿を消していく。それを見送る間もなく、ユウラが袖をまくり上げた腕を湯に突っ込んで、美玻の足を掴んで持ち上げた。

「あ、あの……」

「陛下の御前に出ても、粗相のない程度の体裁を整えさせろ、と。沖斗様のお申しつけなのよ。だから、じっとしてて」

 いかにも肌になめらかな感触の布で、せっせと足を擦りながらユウラが言った。


――沖斗様……


 ああ、あの一緒に馬に乗っていた人か、と思う。そんなことを考える間にも、ユウラの手はせっせと動き、美玻の体を磨き上げていく。

「ああ、あのっ。あたし、自分で洗えますから……」

「……いいのよ、これが私の仕事だし。今日は私、これのお陰で、薪運び免除されてるし……あれって結構重労働なのよ。だから、気にしないで任せてて」

「……いえ、そういうことではなくて……単純に恥ずかしいというか……」

「いいから、いいから」

「でも……っ……」

 頭の上から湯を浴びせられて、懇願の声は水音に飲み込まれる。


――というか、あたしの意志みたいなものは、そもそも考慮の外ってことなのか。


 ユウラの手が、自分の絡まった長い髪を丁寧に解いて行くのを感じながら、美玻は諦めて湯に身を少し沈める。この場合、彼女にとっては沖斗、そしてナミの命じたことを忠実に守ることが何より重要なのだ。たとえそれがお願い程度のものであっても、美玻はユウラに何かを頼める立場ではないということなのだろう。


「……あの。訊いても構わないですか?」

「え?ああ、何?」

「沖斗様というのは、どういうお方なのですか?」

「沖斗様?ああ、あのお方は、比奈国第五王子、洸由様のご配下で、年はまだ十八とお若いけれど、洸由様のご信頼篤く、城仕えをして五年足らずで、すでにその右腕と言われるお方よ」

「……城仕えの前には何を?」

「さあ……そこまでは知らないわ。真面目すぎてあまり愛想がおありにならないけれど、年頃の娘たちには、人気があるのよねぇ……兵の調錬の時など、それはそれはかっこいいんですもの」

 そう言いながら、ユウラがうっとりとした表情を浮かべる。大方、ユウラも他の娘たち同様、沖斗に好意を抱いている口なのだろう。


「……もしかして、あなた。沖斗様が気になる、なんてことは……」

「あ、いえ。そういうことでは……」

「そうよねぇ……無いわよね。あり得ないわよねぇ」

 安堵したような声の後で、くすりと笑いが漏れ落ちた。

「あなたをここに置いて行かれた時も、何て言うか、完全に荷物扱いで、肩に担いでいたのをそのまま床にごろり……だったものねぇ」

 女以前に人間扱いすらされていないのだから、余計な夢は見るなと、そんな含みを感じる。美玻が気にしていたのは、全くそんなことでは無かったのだが、そこは当たり障りなく笑ってやり過ごした。


 髪を洗い終えたユウラが、仕上げに桶に湯を汲み、美玻の体に注ぎかける。湯に香油が混ぜられているのか、全身がふわりと心地の良い空気に包まれて、美玻は目を閉じた。そこに、沖斗の顔が浮かぶ。


――前に。


 会ったことがあるような気がするのだ。

 美玻は生まれてこの方、郷の外へ出たことはなかった。だから、可能性があるとすれば、沖斗の方が郷にやって来たことがあるのだということになる。更に言えば、この五年、美玻は社に籠っていた訳だから、会ったのだとすれば、それよりも前……ということになるのか。それは、自分がまだ、何も考えずに自由に空を仰ぎ見ていた頃――


 社に入れられてから、もう二度とは戻れない暮らしのその記憶が辛くて、なるべく考えないようにしていた。忘れるようにしていた。その甲斐あってと言うべきか、その頃の記憶は、美玻の中ではもう遠いものになっていて、結局、彼女には何も思い出すことができなかった。



 湯浴みを終え、ナミの持って来た着物――それは地味なものだったが、仕立ては良い代物だった――を、やはりこれも自分の意志とは関係なく着せられた。そして、ユウラが美玻の長い髪を、器用に結い上げて整え終わった頃、沖斗が姿を現した。

 沖斗は、表情一つ変えず、美玻の姿を検分するように確認した後で、ただ「付いてこい」とだけ言った。


 長い板張りの廊下を、無言で歩いて行く沖斗の後を、美玻は言われたままに、ただ付いて行く。やがて辿り着いた広間の入り口手前で、沖斗が立ち止まり、そこで何かを確認する様に振り返って、美玻を見据えた。

「……何でしょうか?……あたし、どこか変……ですか?」

 ただ見られているばかりの沈黙が落ち着かずに、思わず訊くと沖斗の両手がすいと伸びて、美玻の肩に乗せられた。

「え……あのっ?」

「……小さい肩だな」

 そう呟いた瞬間に、肩を掴む手に力が込められた気がした。沖斗の手はすぐに離れてしまったから、それは美玻の気のせいだったのかも知れない。


――小さい肩って……どういう意味?そりゃ、小柄なのは確かだけど、それが一体……


「遠見の娘を連れて参りました」

  沖斗の良く通る声がそう告げた。


――遠見の娘。


 その言葉で、美玻は自分がここに連れて来られた理由を悟った。


『生き残った遠見は、お前だけだ』

 沖斗に言われた言葉が脳裏に浮かぶ。


 美玻は、遠見として王に呼ばれたのだ。たった一人の生き残りだから。自分がその名を、背負わなければならない。もう自分しかいないから。自分が遠見として、比奈王の役に立たなければならない……そういうことなのだ。

 急に、肩にのしかかる、遠見の名の重さを感じた。


――ああ、この人が言いたかったのはそう言うことなのか。


 遠見の名を負うには小さな肩だと。

 沖斗はそう言いたかったのか……

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