第43話 龍神の求婚
「あの、夏至の日だよ。君はまだ十歳だった。世の理も理解していない子供に、僕は全てを……そう、文字通り、身も心もそっくり奪われたって訳だね」
「……」
「僕たち龍はね、人の眼にその姿を映し取られると、神力を失うんだ。正確には、神力はその人間の瞳の中に封じ込められる」
「龍……」
あの茜天に見た真紅の龍。
本当に
「本当なら、生贄の祠で、僕は君を食べて体を取り戻す筈だった。でも、あの時僕は、もう少し、君のその顔を見ていたいと思ってしまったんだよ。君の顔を見る度に感じるほっこりした気持ちが、何と言うか……心地よくてね。そこで終わりにすることが出来なかった……」
「……じゃぁ……沖斗は……」
彼もあそこにいたのか。あの夏至の日に。
「ああ、彼も居たよね。遠見の一人として、あの頂に」
「沖斗が遠見……」
――だから、なのか。
沖斗が自分をずっと見守っていたのは。紅澪と同じように、美玻が放ったという光に囚われたから。
「……どうして……話してくれなかっ……」
話してくれれば、自分はもっと、彼に心を開くことが出来たのかも知れないのに。どこか悔しい思いが、美玻を俯かせ眼に涙を滲ませる。
「話さないには、話せない理由があったんだろう。どっちにしろ、それは沖斗が選んで決めたことだ」
「……」
今更、この自分が、彼の人生にはもっと違う結末があったのではないかなどと、考えるべきではないのだろう。それでは沖斗の思いを踏み躙ることになる。
――そんなのは、ダメだ。
美玻は気持ちを落ちつけるように、深呼吸をしてから顔を上げた。
「それで?……紅澪、あなたは今度こそ、天に還る為に、あたしを食べに来たの?激流の中からあたしを助け出したのも、あなたよね?あたしが死んでしまったら、体を取り戻せないから……そうなんでしょう?……柘榴」
「……ああ、やっぱバレてた?」
「だって、あの時あなた……」
言い掛けて美玻は、年頃の娘が口にするには恥ずかし過ぎる紅澪の所業を、しかし糾弾せずにはいられずに小さな声で指摘する。
「……人の体……ペロペロ舐めまくってたじゃないの……」
「大丈夫、その時はちゃんと猫もどきの形してたから。ちなみに言うとね、美玻の血を舐めたお陰で、少し力が戻って来てね、こうして獣から人間へ、変化も高等なものが出来るようになったっていうか……それに、僕が舐めておいてあげたから、美玻は傷の治りだって早くなったんだよ?」
「……それは……お礼をいうべきなのかしらっ?」
怒りと恥ずかしさで、声が裏返る。
「いや、恩に着せる積りはないけど」
「じゃあ、何なのよ。おまけに、寒空の下置き去りにしてくれたのよね?鴒帆がいなかったら、今頃どうなっていたか……」
「あれはさ、血の気に当たり過ぎて、いっとき意識が飛んじゃったって言うか……気が付いた時にはもう、美玻いなくなってたんだもん。随分探したんだよ、雪の中をさぁ……」
「それは、お手数お掛けしました。あたしが力を持ったまま姿を消しちゃって、さぞかし焦ったんでしょう。申し訳ありませんでした」
「美玻……」
紅澪が、美玻の不機嫌な様子にどこか困ったような顔をする。それを見て美玻は、沖斗を失った哀しみと憤りを、八つ当たりのように紅澪にぶつけている自分に気づいた。
――ああ、あたし、最低だ。
「……」
そうは思っても、謝罪の言葉も出ずに、美玻は気まずさを抱えるばかりだ。
「……僕はさ」
紅澪がぽつり言った。
「美玻の側にいると幸せなんだよね」
「……」
「だから、美玻も僕の側にいて幸せだなぁって思ってくれたら嬉しいなって……だた、それだけなんだけど」
「……あたしは……そんな、ほっこり幸せ、なんて呑気に言って良い人間じゃないもの……」
「美玻……この世界に幸せになってはいけない人間なんて、一人もいないよ」
「だって……あたしは……」
自分の為に失われた命の重みが、その身に圧し掛かる。
「不幸を嘆きながら暮らしてばかりいれば、すぐ側にある幸せにだって、気付かずに行き過ぎてしまうことになる。……沖斗だって、美玻がそんな風に生きて行くことを望んではいないんじゃないの?」
「……」
「まあ……僕も、もう少し時間を置くべきだったよね。たまたまこの郷にいたら、美玻がいきなり現れたもんから、舞い上がっちゃってさ。つい、声を掛けちゃって……」
店の人間がそこで料理を運んで来て、会話はそこで途切れた。
そこからは、たまに紅澪が他愛もないことを言い、美玻がそれに愛想のない相槌を返すということの繰り返しで、結局、何を食べたのかも良く分からないまま、美玻は宿に戻って来ていた。
紅澪のした、信じ難いような話を、美玻は窓辺でぼんやりとしたまま、ずっと考えていた。幾度も止めようと思いながら、まるで、彼の話を素直に飲み込むべきだというように、美玻の頭は、勝手に幾度もその内容を反芻し続けていた。
空がまた、何時か見たような鮮やかな茜に染まっていた。
「……求婚、されたのか。あたし……龍に……」
不意にその事実が、すとんと心に落ちた。
昼間の出来事を整理して要約すると、そういうことになるのではないか。流石に、思い切り遠回しに「食べてもいいか」と聞いた訳でもないだろうと思う。本当に食べる積もりなら、今までにいくらだって機会はあっただろうし、美玻にわざわざ断る必要もないだろうと思う。
「……何か、変なの」
まるで現実味がない。それでも、それが事実なのだ。
『また、会いに来るから』
別れ際に、紅澪はそう言った。
つまり自分は、それまでにその答えを用意しておかなければならないのか。
「ぜんっぜん、分かんない……分かんないよ」
何をどう考えて、どう決めればいいのか、美玻には見当も付かなかった。
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