第7話 洸由の目論見

 そのまま、腕を引かれるままに数歩足を踏み出したところで、頬を清涼な風が掠めた。

 目を開くと、彼らは見晴らしの良い露台に立っていた。

「……凄い」

 瞬間、美玻は何もかも忘れてその光景に見入る。

 もともと城自体が、丘陵の高台に作られているのだろう、果て見の頂には比べるべくもないが、そこからの眺めも素晴らしいという言葉で表わされることに、何ら遜色のあるものではなかった。


 遠く地平の先に、きらきらと紺碧の光が反射しているのが見える。あれはもしかしたら、海というものではないだろうか。文献で読み、想像するだけだったものが、今、目の前に見える。本当は、見ることなど叶わぬ筈だった景色を自分は見ている。

 そう思うと、否も応もなしに胸が苦しくなった。とりもなおさず、それは美玻が、この世界でたった一人の遠見となったせいに他ならないのだから。それでも、目の前に広がる景色の見事さに、見ることを止められない。哀しみと喜びと、相反する感情が同時に心を締めつける。あまりに多くのものが目に飛び込んで来て、頭がくらくらとし始めた。それでも尚、手摺にしがみつく様にして美玻はその景色を見ていた。



 露台の手摺に手を掛けて、そこに体を預けているのは、矢張り体が辛いせいなのか。そう思いながらも、洸由には美玻が身を乗り出しているようにも見える。

 一寸前までは、怯えきって全く生気のない顔をしていたものが、今はその琥珀の瞳がいかにも生き生きと輝いている。洸由は口元を歪め、僅かに笑みを浮かべて確信した。


――間違いない、こいつは遠見だ。


 世界の全てを見るために、生まれて来た者なのだ。

「何が見える?」

「……海が」

「海、だと?」

 この娘は今、海と言ったのか。洸由が問い質すと、美玻がこちらに顔を向けた。その瞳は思いがけず、涙で潤んでいた。

「……何を泣く」

「……分かりません……ただ……色々な気持ちが込み上げて……良く分からな……」

「……まあいい。それよりも今、海が見えると言ったな?」

「……はい。あちらの谷のずっと先の方に……あれは、海というもので宜しいのですよね?」

「ああ……」

 本当に、見えるらしい。

 この娘には、隣国の十季トキをも越えた先にある海までもが。もちろん洸由には見えていない。知識として、そちらの方角をずっと行った先に海がある、ということを知っているだけだ。


――これは、もしかしたら、とんでもない力の持ち主なのではないのか。


 そんな思いに、心がざわめく。また再び、景色に取り込まれるように、無心に遠くを見詰めている娘の姿に、洸由は畏怖……のようなものを感じた。



 それは、この春先のことだった。

 宗主国である鴻から、皇帝の親書を携えた使節が比奈国に下った。それはありていに言えば、希物の催促をするために送り込まれた使者だった。

 前回、比奈の希物である龍の鱗を献上してから、すでに三十年に近い時を経ていた。故に、そろそろ催促が来てもおかしくはない時節ではあったのである。特別に驚く事柄でもなく、王宮の者は皆、ああ、またその時期が来たのかというぐらいの感覚だった。


 慣例に則り、すぐに、遠見の郷に龍探索の為の遠見を差し出すように触れが出された。その使者に立ったのは、沖斗である。彼がその重要な仕事を任されたのは、洸由の王宮での、現在の立場と関わりがあった。


 洸由は比奈国では、第五王子という微妙な位置にいる。王位継承の可能性があるのは、せいぜい三番目ぐらいまでが関の山だ。現王太子とその次兄は、共に文武に秀で優秀な人物であったから、現実問題として、ここはまあ抜けないだろうと考えているのだが、自分の上二人ぐらいは、実力的に何とかなりそうなのではないかと、ここ数年考えるようになっていた。

 ちなみに、比奈では継承順位は年の順ではないから、可能性は無いことも無いのである。戦や不慮の事故や病。そういったものは、少なからずある。三番目に付けていれば、もしかして……という確率は、ぐっと高くなる。洸由は常からそんなことを考えていた。


――手柄さえ立てれば。


 鴻よりの使者が来た時、隣国との国境の小競り合いの制圧の為に、王太子は城を空けていた。第二王子は、前年より人質の名目で鴻へ遊学中である。武芸に秀でていた洸由は、王太子の供をして国境の制圧へ赴いていたのだが、戦況報告のために、ちょうど城へ戻っていたところだった。

 希物探索に関われば、大きな手柄を期待できる。すぐさまそう判断した洸由は、遠見の郷に程近い村の出であり、その辺りの地理に明るいという沖斗を、迷わず使者に推挙したのである。



 沖斗が持ち帰った遠見の長からの返答は、郷では次の夏至までに、為さねばならぬ祭祀を控えているから、探索はそれまで待って欲しいというものであった。

 何でも、郷には現在祟り者と呼ばれる忌人いみびとがおり、それを祓い清めておかねば、神聖な探索に悪い影響が及ぶことになるという話だった。それに、そもそも龍の探索は、夏至に天下る龍の残す痕跡を手掛かりに行われるもので、夏至から時間が経ち過ぎてしまっている今の時期では、その痕跡を見つけにくいのだという。

 そんな理由を付けられれば、比奈王としても納得しないわけにはいかず、探索はその祭祀がつつがなく執り行われた後、即ち、夏至を待って行われる、ということで決まった。

 そして、洸由が正式な出迎え役として、遠見の郷へ出立したのは、夏至を数日後に控えた日のことだった。



 城を出る所から、もうすでに儀式のうちであるから、洸由たちは宮中の正装姿で、遠見を運ぶ螺鈿細工の施された特別の輿をしたがえて、馬を常歩でゆっくりと進めなければならなかった。だから、郷までの道程には、徒歩とさほど変わらない日数を要した。

 そうして彼らは、夏至の前日、その陽が暮れ落ちる頃に郷に到着したのである。


 翌日の夏至に、彼らは探索を担う遠見と共に果て見の頂と呼ばれる遠見の聖地に登り、まず龍の気配を見る。そして、いったん王宮に戻り、王へその首尾を報告した後、本格的な探索へと赴く。大まかにはそういう手筈であった。

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