第57話 暁の翼

 《アルヴァ》の輝く足が純白の床を蹴り、ミカエルの《エシュ》に挑みかかった。迫る未知、そしてその威圧感に呆気にとられたままの《エシュ》の頬へ七色の拳が打ち下ろされる。体勢を崩す《エシュ》。しかしそれが気付けとなって、ミカエルは再び憤怒を叫ぶ。


『――我が叡智に其の権能は無い。其の姿は無い。認めぬ、斯様な化身は認めん!』


 《エシュ》の金文様がその言葉に反応するように轟々と燃え上がる。大きく開き、光を放つ翼。瞬く間に《エシュ》が消え、赤い《セラフィーネ》は《アルヴァ》の死角へ転移する。


『――消え去れッ!』

「断るッ!」


 ミカエルが睨みを利かせ、結晶ではない部分――《アルヴァ》の胸元へ剣を振り下ろす。対するサハラは金の瞳でそれを見切ると、《アルヴァ》の両手を迫る刃へとかざした。その掌から呪光砲が放たれ、刃の軌道を逸らす。同時に《アルヴァ》は体を捻ると、《エシュ》の脇腹へ回し蹴りを叩き込んだ。衝撃と共に《エシュ》が吹き飛ばされる。


『――其の様な……其の様な姿は!』

「――好い加減に現実おれを視ろッ、ミカエル!」


 《アルヴァ》の翼が更なる輝きを纏い、《エシュ》とは反対の方向、天使たちが連なる最中へ転移した。突然現れたアンゲロスの機神に聖天機たちの文様が驚いたように点滅する。サハラはそれを全天周モニター越しに一瞥すると、傍にいた《ヘルヴィム》の胸を呪光砲で貫くと、その手から剣と盾を奪い去って飛んだ。文様が奔り、《ヘルヴィム》の武装だったそれらが《アルヴァ》の兵装へと上書きされる。


「――おおおおおおおおおおッ!」


 周囲の聖天機を斬り伏せ、爆風と共に迫り来る《アルヴァ》。《エシュ》の双眸が輝き、次元障を展開する。立ちはだかる光の障壁。しかしサハラはそれをものともせず、正面から突っ込んだ。騎士の剣と障壁が激突し、閃光と衝撃がはじける。


『――認めん! 斯様な醜悪な姿など、斯様な変化など! 幻影、亡霊、残滓! 為らば然るべき様に消え去れッ!』

「いいや、これが俺の力だッ! お前を倒して、全部を終わらせる俺の力だぁッ!」

『――黙れ! 我が天秤を悪戯に傾けるな。我が憤怒に迫るな。触れるなァァッ!』


 ミカエルの感情の爆発を表すように、次元障が爆発的に膨張する。天井を押し上げ、壁を崩し、床には亀裂が走る。弾き飛ばされ《アルヴァ》は翼を広げて空中で体勢を立て直し、盾と剣を構え直す。

 対する《エシュ》は全身の文様を輝かせ、その音色を舟中に響き渡らせると、自身の周りに無数の結晶を創り出す。虹色をした死の宝石、その切っ先は全て《アルヴァ》へ向いている。


『――灰燼と化せェェェェェッ!』


 ミカエルの咆哮と共に振り下ろされる《エシュ=セラフィーネ》の双腕。そしてそれを合図にして、無数の結晶は《アルヴァ》目掛け一斉に打ち出された。

 荒れ狂ったミカエルの心中を表すように、結晶の嵐は全てを巻き込んでいく。舟の純白を切り裂き、貫き、砕き、破壊していく。周囲を取り囲む数多の聖天機たちもその例外ではない。次々湧く無人機の《エンジェ》も、剣で捌こうとする《ドミニア》も、撃ち落とそうと試みる《ヴァーティス》も、盾を構える《エクスシア》も構わず貫き、塵へと変える。

 しかし。


『――寄るな。何故だ、何故貴様は……ッ!』


 ミカエルの目が愕然と見開かれる。

 その視線の先で、《アルヴァ》は悠然と、一歩一歩踏みしめるように、結晶の嵐の中を《エシュ》へと突き進んでいた。

 当然、《アルヴァ》の周囲にも結晶は降り注いでいた。否、その周囲にこそ降り注いでいた。現に《アルヴァ》の足元では床が爆裂する結晶によって抉れ、そのすぐ傍では無謀にも《アルヴァ》へ挑みかかった《アルケン》が蜂の巣になっていた。

 しかし、《アルヴァ》は歩みを止めない。止まらない。


「――云った筈だぜ。俺は総てを貰う。総て、利用する」


 降り注ぐ結晶、それらは《アルヴァ》にも届いていた。足を、腕を、肩を、胸を、額を、翼を、ありとあらゆる部位に激突していた。しかし、今の《アルヴァ》はアンゲロスの化身だった。結晶は《アルヴァ》に触れた傍からその身体を構成するものへと、《アルヴァ》の一部へと化していた。

 《アルヴァ》は《エシュ=セラフィーネ》から撃ち放たれた結晶のことごとくを、自身へと変換していた。『結晶』を『融合』が完全に上回っていた。


「――俺が叩き返す。天使おまえたちから受けた物を、全部纏めて叩き返すッ!」


 それは《アルヴァ》の四肢だけではない。《アルヴァ》の一部となった剣と盾にも言えることだった。盾は荘厳なレリーフを得るように、剣はその刃を強化するように、結晶を纏っていく。


『――馬鹿を、云うなァァァッ! 斯様な出鱈目が在って好いものか。赦さんッ! 総て、貴様の総てを否定するッ!』


 《エシュ》が次元翼を発動し、転移する。現れたのは《アルヴァ》の遥か後方、取り巻く聖天機たちの更に後方。


『――汚らわしい。悍ましい。疎ましい。醜い。迫るな。触れるな! 羽無し程度の下等種族が、我が純白に黒を堕とすな!』


 ミカエルの絶叫は、聖天機たちを動かした。いくら《アルヴァ》に利用され撃破されても、いくら《エシュ》の結晶に巻き込まれようと、その数は徐々に減りつつあれど尽きることはなく、奥からまた現れていた。けしかけられた無数の天使たちは円環のように――いや、破壊された空間を最大限に活かし、《アルヴァ》を中心に球を作るように展開していく。


 ――ヴィゥゥゥゥゥゥゥウウン……!


 天使たちの文様が反響し、鼓舞するように共鳴する。圧倒的な物量に囲まれるサハラ。だが、今のサハラにとってはその物量さえも敵ではなかった。冴えた頭が、そして蛮勇を越えた勇猛が一つの閃きを導き出していた。それは、必殺の一撃。


「ミカエルに出来て俺に出来ない道理はねぇ……掛かって来い、天使どもッ!」


 《エンジェ》から、《ヘルヴィム》までのありとあらゆる聖天機がその雄叫びへ武装を構える。そしてミカエルの鬨の声と共に、白の軍勢は《アルヴァ》を押し潰さんと突撃した。


『――消し潰せ!』


 迫る無数の白。輝く種々の文様。朱槍が、双剣が、長砲が、体躯が、直剣が、大剣が、《アルヴァ》を狙う。その中心で、サハラはそれらすべてを睨みながら叫び、トリガーを引く。


「――消し飛べぇぇぇぇぇぇぇッ!」


 その瞬間、《アルヴァ》の四肢と翼――結晶で構成された部位が黄金の輝きを宿す。それはまるで、発射寸前の呪光砲のような閃き。

 背後の《アルケン》が悟ったように文様を点滅させる。

 光を凝縮させた《アルヴァ》は、それを炸裂させた。結晶の機神、その結晶の全てが呪光砲の砲口と化し、全身の至る所からエネルギーの奔流が撃ち放たれた。

 それは全方位、一切の逃げ場のない呪光砲。

 迫っていた聖天機たちが貫かれ、爆散していく。『消し飛ばす』、その言葉の通りに純白の包囲網は黄金の光によって瓦解していく。轟音と共に《アルヴァ》の周りを囲んでいた全ての聖天機が、否、舟にもとどめを刺すように放射された光線によって破壊される。

 その射程と勢い、威力に現れ出ようとしていた次元のゲート内の《ガルガリン》、《ヴァーティス》たちまでもがそのアンゲロスを打ち砕かれていく。

 それはミカエルも例外ではなく、《エシュ》は次元障を展開してその奔流を防いでいた。


「――俺はお前の敵だぞ、ミカエル」


 寸前で崩壊を免れた次元障、その向こうには最早聖天機の一機も残っていない。ただ一機、虹色の光の中に佇むアンゲロスの機神は《エシュ》を真っ直ぐに睨んでいた。

 全てを打ち砕かれた《エシュ》は、音もなく剣を構える。応じて、盾と剣を構え直す《アルヴァ》。極限に至った両機の間に束の間の静寂が流れる。


『――……認めん……赦さん……』


 呟いたのは、ミカエルだった。


『――斯様な現実は赦さん! 貴様は、貴様はァァァァァァァァァァァァァッ!』


 《エシュ=セラフィーネ》が豪速で肉薄し、その赤剣を怒りのままに薙ぐ。《アルヴァ》の盾がそれを受け、盾を覆う結晶が砕け散る。

 続けざまに放たれる《エシュ》の拳は《アルヴァ》の胸を狙うが、騎士の剣がその赤い腕を弾き上げる。お互いに開く胴。しかし《エシュ》にとっては危機のそれでも、《アルヴァ》は違う。


「食らえッ!」


 《アルヴァ》の腹部が光を宿し、光弾が撃ち放たれる。《エシュ》の翼が光る。赤い《セラフィーネ》はその脇腹に一撃貰うものの、すぐさま転移してその場から姿を消す。

 現れたのは《アルヴァ》の背後。しかし、翼から放たれる呪光砲がその攻撃を許さない。防御を終える頃には振り返った《アルヴァ》の刃が迫る。再び転移し、また死角に回れど呪光砲が迎え撃つ。

 剣戟と呪光砲の発射音が間隙なく響き続ける。刃が激突した次の瞬間には光弾と障壁が弾ける。二機の機神だけが、最強を争うように戦闘を繰り広げていた。

 だが、足りない。届かない。ミカエルの剣は、サハラを捉えない。その身体を構成する結晶を如何に削ろうと、剥ごうと、砕こうと、全ては致命傷に至らない。最大にして最強の能力『結晶』を封じられた《エシュ=セラフィーネ》では、《セラフィーネ》を超えた《アルヴァ》は倒せない。


『――何故だ、何故、何故、何故! 貴様は最早ルシファーでは無い! 貴様は、同胞ですらない! 残滓ですら、欠片ですら! 其の貴様がァァァッ!』

「最初っからそう言ってるだろうが! 俺はサハラだ! 東雲サハラ!」


 《エシュ》が結晶能力を使わない以上、《アルヴァ》の結晶体を崩せばいずれ元の達磨に戻るかに思われた。だが、違う。その翼を斬り落とそうと、手首を断とうと、腰を突き刺そうと、《アルヴァ》の結晶の体は補われる。答えは簡単だった。《エシュ》が撃ち放った無数の結晶、そして撃破された数多の聖天機から再結晶したアンゲロス――戦場に遺るその全てを、サハラは利用していた。


『――では何故貴様が融合の権能を有する。其れはルシファーの権能だ。其れは、赦されざる権能だ! 貴様がルシファーでないなら何故ェェェッ!』

「それはッ! ルシファーの残滓と呼ばれる俺も、東雲博士の息子の俺も、セイゴ隊エースの俺も、天使化した俺も、ウリエルを憎んだ俺も、親友に刃を向けた俺も、全部が俺だからだぁぁぁぁぁぁぁッ!」


 忌避するように《エシュ》が放つ呪光砲、それを正面から受けながら放った《アルヴァ》の晶拳がその胸に激突し、叩き込まれた赤い《セラフィーネ》は後方へ吹っ飛ぶ。


『――失せろ……失せろ失せろ失せろ』


 みっともなく倒れた《エシュ》が再び立ち上がる。赤い憤怒は幽鬼の如くゆらりと立ち上がると、全身を真っ赤に燃やしながら、剣を両手に構え、全速力で突っ込んだ。


『――羽無し如きが! 呪光も御せん下等種族が! 我が逆鱗に触れるな、我が神判に叛くなァァァッ!』


 文様が輝きを増す。赤熱した剣は一切を焼き払わんとする憤怒を象徴し、その双眸は怒りの根源であるサハラをのみ映す。決死の一撃のように見えるその突撃へ、サハラは己も構える。


「――知ったことじゃねぇッ! お前らの勝手な神判なんて御免被るッ! 此奴の名は《アルヴァスレイド》ッ! これは天に抗う叛逆の刃だぁぁぁぁッ!」

『――オオオオオオォォォォォォォォォォォォッ!』


 咆哮と共に振り下ろされる赤き灼熱の大剣。迎え撃つ《アルヴァ》が自身の剣を振り上げるが、ミカエルの怒りをそのまま表す剣は騎士の剣を斬り砕いて、なおも止まらない。怒りの刃は咄嗟に構えられた盾をも腕ごと焼き切らんとする。コックピットのある胸部へ迫る凶刃。


「――俺は、俺がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」


 サハラの咆哮と共に、《アルヴァ》が身を動かす。アンゲロスの機神は盾を構えた左半身の防御を完全に捨てると、交差するように剣を失った右手で《エシュ》の頭部を掴んだ。《エシュ》の炎熱の刃が左半身を焼き斬ると共に、《アルヴァ》のブースターが雄叫びを上げて燃える。


「――おおおおおおおおおおおおおッッ!!」


 サハラの咆哮に応じるように、《アルヴァ》の全身の文様が共鳴する。流星の如き結晶の巨人は壁と言う壁をぶち抜き、突っ込んでいく。衝撃と度重なる激突に《エシュ=セラフィーネ》の翼が砕け、その四肢も削れ、砕けていく。


『――離れろ! 触れるな! 離せ!』


 ミカエルの絶叫が響く。コックピットの中で、ミカエルは憤怒を露わにありとあらゆる操作を行う。しかし、《エシュ》は剣を振り下ろしたままびくともしない。

 何故だ、何故だ――募る怒りの中、ミカエルはその目で見る。《アルヴァ》に掴まれた《エシュ》――その全身に、黒と金の《アルヴァ》の文様が迸っているのを。


『――貴様ァァァァァァァァァァッ!』

「黙れぇぇッ!」


 一際大きな轟音と共に、最奥と思われるその部屋の真っ新な床へ、《アルヴァ》は《エシュ=セラフィーネ》を叩きつけた。部屋にあったことごとくがその衝撃に倒れ、そして《エシュ》の下敷きとなって押し潰れる。《アルヴァ》は敵機の頭部を下へ叩きつけ、そしてその胸部へ掌をかざした。全身から集うように、右手の掌へ眩いばかりの光が集っていた。


「俺が、俺の――勝ちだあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁあッ!!」


 全身のアンゲロスから集中させた、一転突破の呪光閃砲。

 真っ白な部屋に閃いたそれは、黄金の光と共に《エシュ=セラフィーネ》を打ち砕いた。





 舟の最奥、そこが何の部屋だったのかサハラは知らない。

 今その空間には、床に空いた大穴、崩れた天井、ぶち抜かれた壁と扉、右半身のみの《アルヴァ》……そして、撃破され再結晶した《エシュ》のアンゲロスが転がっているだけだった。

 その輝く球体に、《アルヴァ》は音もなく手を伸ばす。触れた途端、それは《アルヴァ》の一部と化して――その背に失われた左翼が蘇る。


「――……お前の力、使わせてもらうぞミカエル」


 そう呟くサハラの目は、床に空いた大穴を見ていた。戦闘中にも感じられていた、ミカエルではないもう一つの『巨大な気配』。今まさに、この部屋の下からそれが感じられていた。サハラは周囲を警戒しつつ、その穴の中へ飛び込む。

 そこは、他の部屋と同じように一面の白銀だった。そしてその部屋の真ん中に、舟の動力源だろう、それがあった。

 それは、巨大なアンゲロス。《アルヴァ》より二回りは大きかろうという球体が数々の装置に繋がれていた。アンゲロスは自身が今も舟を維持していることを示すように、胎動するような光を帯びていた。そのせいか、この部屋には尋常ならざる呪光が満ちており、《アルヴァ》を介しているサハラの動悸も速くなる。


「……こいつを壊せば、全部を終わらせられる」


 サハラは自身の目的を、人類の悲願を口にして確認する。それは確認と同時に、覚悟だった。改めてそれを確固たるものにして、《アルヴァ》が《エシュ》にしたように掌を巨大なアンゲロスにかざす。


「…………」


 辺りは異様なほど静かだった。どこかから天使が阻害してくる雰囲気もない。感情が高ぶっているせいか、サハラの耳には自身の鼓動の音だけが届いていた。サハラはそれを鎮めると、まっすぐ前を見てトリガーを引いた。

 閃光と共に、アンゲロスを一筋の光線が貫く。そして刹那の間を置いて、アンゲロスは点滅し――そして意外なほど呆気なく、それは砕け散った。


「……これで、終わったのか」


 無感動にも思える幕引きに、サハラは安堵するように息を吐く。アンゲロスが砕け散っても、この部屋は同じだった。ただ、機械たちが徐々に光を失って、《アルヴァ》の体だけが光源になりつつある。

 あとは戻るだけだ。

 どこか安楽な気持ちでサハラが操縦桿を握り直した――そのときだった。

 それは戦闘中にも聞いたことがないような爆音。そして足元から崩れ去るような衝撃。サハラは咄嗟に《アルヴァ》を上の部屋へ飛ばしつつ、全天周モニターで足元を確認した。


「なんだよそれ……っ!?」


 そこに広がり始めていたのは、虚無だった。虚空だった。つまりなんなのか、と問われれば答えようのない『何か』がイェーヴェを侵食し始めていた。

 真っ白だった部屋は灰色にくすみ、崩れた場所から虚無が舟を飲み込み始めていた。じっと見つめればおかしくなりそうな、脳みそが理解することを拒絶するような未知に、サハラはデオンの言葉を思い出す。


『サハラ、一見簡単なように見えるが……この任務の最も難しいのは、破壊した後だ』

『単純に言おう。もう二度と地上には戻って来られなくなる。あぁ、二度とだ。我々にも門の収縮スピードは予想できない。《アルヴァ》の次元翼をフル回転させても間に合うかどうかは定かではない』


 思い出した。……思い出していたが、思い出した時には既にサハラは飛び出していた。幸か不幸か自分で一直線にぶち抜いた舟の壁を飛び去っていた。


「くそッ、もっとだ! もっと速くッ!」


 サハラを主に駆り立てていたのは地上へ帰るという使命感ではなかった。あの『よくわからない未知』に呑まれたくないという恐怖がほとんどだった。

 戦闘の影響で、舟は脆くなっていた。至る所が崩れ、虚無がその残骸を跡形もなく飲み込んでいく。それから逃げるように、躱すように、サハラは《アルヴァ》を飛ばす。発動まで間のある次元翼を使う余裕もない。

 周囲では残っていた聖天機たちもまた、飲み込まれ始めていた。虚無に触れられた途端、そこには何もなかったかのように消え去る。《アルヴァ》ほど速くない量産の聖天機たちが次々と飲み込まれていく。


「見えたッ、『門』!」


 舟の中を疾走するサハラの視線の先に、出入り口である巨大な次元のゲート――『門』が見え始めていた。後ろから迫り来る虚無から逃げながら、サハラは一心にそれを目指す。

 しかし、『門』は《アルヴァ》の目の前にして閉じつつあった。更に門の周りにも虚無が広がり始めており、サハラの決意が揺らぐ。

 間に合わないかもしれない。この虚無に、自分も飲まれるかもしれない――。


「くそッ、くそッ、くそぉぉぉぉッ!」


 あと少し。しかし、その距離が遠く感じられた。隣で飲まれる聖天機たちが更にサハラの不安を煽る。虚無が舟を呑んでいく衝撃と全速力で飛ぶ《アルヴァ》の駆動でコックピットががたがたと揺れる。黒い闇を内包する門が、虚無によって閉じられ始めている。ここまで来て……いや、これで全てが終わるなら――

 こつん。


「……あ」


 サハラが諦めかけたその時、操縦桿を離しかけていた右手の甲に、硬いものが当たる。それは、小瓶だった。灰で満ちた、何でもない小瓶。ただ揺れるコックピットで衝撃に踊っただけの意思のない小瓶。

 しかし、その灰はサハラの闘志を再び蘇らせた。


「――そうだよな、母さん。俺は、俺が、みんなの下へ帰るんだッ! あぁ、必ずッ!」


 《アルヴァ》の全身のアンゲロスが光を纏う。そして、全身から後方へ放たれる呪光砲――その反動を利用して、《アルヴァ》は猛進する。虚無から逃れ、空を切って、全てを燃やし尽くさんとして流星になる。


「――おおおおおおおおおおおおおおッ!」


 絞り出すようなサハラの雄叫びは――虚無に呑まれる寸前、ほとんど閉じた『門』の中で響いていた。

 来るときにも見た、次元のゲートの中の闇。いずれ虚無に呑まれるとしても、サハラはもうその闇に恐怖は感じていなかった。速度を緩めることもなく、機神はその果ての光を目指し、飛び込んだ。





 まず感じたのは、明るい空だった。太陽こそ出ていないものの、雲一つない空は清々しいまでに青く、夜が明けることを告げていた。そのどこにも、虚無はない。

 そんな空を、《アルヴァ》は全身を煌めかせながら飛ぶ。振り返れば、巨大な次元のゲートである『門』は消え去っていた。眼下の海にはカトスキアの艦船が並び、岸には疵多きテノーラン基地が巨大な砲身を掲げたまま夜明けに臨んでいた。

 同時に、サハラだけだった孤独のコックピットにノイズ交じりの通信が届く。


『――ハラ! サハラ! 応答して! サハラ!?』

「……あぁ。こちらセイゴ隊四番機、東雲サハラ」


 数年ぶりに聞く気すらする小春日マオの声に、サハラは帰ってきたことを痛感する。やってやったんだ。終わらせたんだ、俺が。俺が、この手で。


『東雲サハラか。作戦の報告をしろ。……見れば、わかるがな』


 マオと通信を変わったのだろう、皮肉っぽい朝霧の声がする。裏では司令室が何かを待つように息を飲んでいるのが通信越しにすら伝わってきていた。

 サハラは一つ呼吸を置くと、エースらしく、告げる。


「大天使ミカエル、及びイェーヴェを撃破した」


 通信の向こうで歓声が上がる。一際騒いでいるのが一人……おそらくデオンだろう。全く、あの爺さんは。


『そうか。……よくやった。基地で待つ』


 相変わらず淡白な台詞だが、サハラはその言葉がかすかに笑みを含んでいたのを聞き逃さなかった。何か言い返してやろうかと思ったが、その前に通信がマオに戻る。


『お疲れ様、サハラ。……本当に』

「あぁ。心配させたな、マオ」


 マオとも軽く言葉を交わす。でも、今はこれで十分だろう。マオは咳ばらいをして、管制の仕事に戻る。


『では順次、帰投してください。……出撃前と様子が違うからこっちで案内するけど、いい?』

「了解。一応言っとくけど、今の《アルヴァ》はアンゲロスの塊だってことを伝えてくれ」

『……それ本当?』


 通信がオープンの回線になっていたのだろうか、司令室が別の意味で慌ただしくなり、デオンもまた別の意味で騒がしくなる。帰ったらあれこれ聞かれることだろう。

 マオの案内を待ちながらテノーラン基地、その発着場を見やる。遠目からでもわかるように、人が集まり始めていた。……おそらくそこに降りることはないだろうけど、悪い気はしなかった。これがエースの気分ってやつなのかもしれない。


『……では、これより案内します』

「了解。東雲サハラ、帰投する!」


 マオの言葉に軽く頷くと、サハラは操縦桿を握り直した。

 海と陸に戦士が集い、戦った末に静寂の戻った夜明け――暁を、《アルヴァ》は仲間たちの下へ、帰るべきところへ飛んでいくのだった。







「これでしばらくお別れ……だね」

「そうだな」


 後日――テノーラン基地にて。

 サハラはユデック基地へと戻るセイゴ隊へと別れを告げていた。俯くマオの肩へ、セイゴが慰めるように手を置く。


「仕方ない。サハラはテノーランを離れられず、俺たちにはユデック基地に復興がある。まだまだ仕事は多いんだ」


 あの夜明け、《アルヴァ》とサハラが帰投してからもカトスキアは忙しく動いていた。あの日以来次元のゲートが開くことこそないが、天使との戦争によって失ったものは多い。カトスキアはその言わば『後処理』に駆られていた。

 その中で、セイゴ隊は本来の所属であるユデック基地への帰投を命じられたのである。


「まぁ、俺はここに残るしかないさ。一緒に行ければ、それもそれでいいんだけどな」


 サハラは苦笑しつつ、基地内を見渡す。誰も彼もが、新しい仕事にいそしんでいる。

 セイゴ隊の中でも、ルディとサハラはユデックに戻るわけではなかった。ルディは『楽園の蛇』計画や天使化の影響でテノーラン基地に留まることになり、そしてサハラも同じだった。


「……」


 サハラは自身の手を見る。次元のゲートが閉じ、イェーヴェが崩壊した今、サハラは唯一残った完全な天使となっていた。そんな存在をカトスキアが地方の基地であるユデックへ返すわけもなかった。


「これからはどうするんだよサハラ。まさかモルモット生活か?」

「ちょっとシューマ……!」


 若干不謹慎なシューマの軽口にマオが釘を刺す。シューマ自身も『楽園の蛇』の新型パイロットにはなっていたが、急造が幸いしたのか、既にデータは取り終えて拘留を終えていた。今ではほとんど『ただの人』、とは本人談である。

 痛烈な皮肉ではあったが、サハラは首を横に振った。


「いや、俺もやろうと思っていることがある」

「……良ければ、聞かせてくれ」

「いいですよ」


 セイゴに問われて、サハラは少し恥ずかしい気がしながらも答えた。


「俺、ちょっと呪光研究っていうか……天使の研究に手を出そうかなって」

「あのサハラが……?」

「失礼なやつだなマオ……」


 驚愕するマオに苦言を呈すサハラ。確かにサハラは勉強が出来る方ではなかったし、むしろ出来ない方だった。それでも、野望があった。


「これから俺は、多分死ぬまで色々研究されるし、色々試されるんだと思う。シューマが言ったみたいにさ」


 でも、とサハラは拳を握り締めた。


「これはチャンスなんじゃねぇのかって思って。どうせ研究されるなら、俺もそれを勉強する。……そしたら、俺自身のこととか……母さんの仕事のことも、もっとわかる気がする」


 ――いずれは、母を継いで。

 その願いこそ口にしなかったが、サハラは自身のこれからの野望を告げた。幸いにもデオンという先生もいる。しばらくはルディも共に行動するだろう。……なら、自分にやれることはやってみたい。

 その意志を読み取ったのだろう、マオが寂しそうに笑った。


「サハラらしいね」

「あぁ」

「全くだ」


 満場一致だった。三人とも、伊達に長い間一緒に戦ってきたわけではなかった。サハラ自身も、それに頷く。


「母さんの仕事も、母さんの名前も、俺の体も――全部利用するつもりだぜ、俺は」

「それでこそ、だよ」


 セイゴ隊を乗せるサターネ級三番艦バアルゼーヴェが、間もなくの発進を告げる。セイゴとシューマは別れの握手を交わし、艦の中へと降りていく。残されたのは、マオとサハラ。

 二人は少し見つめ合うと、マオが右の拳を突き出した。どこかマオらしくないその動きにサハラは苦笑しながら応じる。


「……またね」

「あぁ、また」


 サハラの拳が、マオの小さな手には不釣り合いな黒い革製の手袋とぶつかった。マオは微笑むと、セイゴたちの後を追って艦へ姿を消す。サハラはそれを見送ると、デオンとルディの待つテノーラン基地の中へ戻っていった。

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暁のアルヴァスレイド 並兵凡太 @namiheibonta0307

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