第38話 抗いの翼
「――メタトロン? ……否」
格子で遮られた先、サハラの前に佇む天使は伏し目がちにそう言った。
「――サンダルフォン。ミカエルに仕える者。理解しろ」
冷徹な、しかしそれでも無感情な瞳をこちらに投げる。呆れているような、退屈なような、そんな視線。サハラは胸の内がうっすらさざ波だつのを感じながら、その名を繰り返した。
「サンダルフォン……」
聞いたことのない名前。もちろん、メタトロンも語っていない名前。
しかし、その姿はあのメタトロンと瓜二つだった。
そのサハラの視線を感じたのか、サンダルフォンはやれやれと首を振った。
「――黎明の残滓。其れでも未だ、彼の堕天使を重ねるか。……否、理解出来ぬ話では無い」
「やっぱりお前、メタトロンと何か……!」
サハラの目に光が宿る。しかしその淡い希望を、サンダルフォンは一言で打ち砕いてみせた。
「――否定する。あれとは違う。双璧であっても表裏ではない。同種であっても同一ではない」
「……わかった。続けろ」
サハラが憎々し気に視線を投げると、サンダルフォンはまた物憂げに俯いて語り出した。
「――同型。あれとの関係は、ミカエルとルシファーの其れと同じ。理解しろ」
「ミカエルと……ルシファー?」
サハラの脳裏に浮かぶ二人。先程玉座で見たミカエルと、夢で見た、遠い記憶のルシファー。黒い翼と白い翼、確かにパッと見は正反対だが……いや、似ている……?
「――肯定する」
サンダルフォンは目を伏せたまま、サハラの思考を読んだようにそう告げた。
「――サンダルフォンは、ミカエルに。メタトロンは、ルシファーに。其れこそが存在意義であり、存在価値である」
「メタトロンは、ルシファーに……」
サハラは獄中で胸に手を当てる。思い出すのは、メタトロンが自分にのみ唯一対話を許したこと。そして、この身に宿るルシファーの力。そうか、だからメタトロンは……。
その途端、ふとサハラの中で思考が繋がる。メタトロンとサンダルフォンが同種の天使であるように、ミカエルとルシファーは同種の天使。
先程から続く身を焼くような感覚。全身から気力が溢れ出し、真っ黒に燃え上がるような感覚は天使化が続いていることを告げる。
そして、俺の天使としての能力はルシファーに近い。つまり、ミカエルとも……?
「――……!」
先程の、ミカエル。人を人とも思わないような態度と、俺を全く意に介さない視線。それと俺が近くなりつつある? 人間の、俺が?
「――……!」
「――否定する」
そんな訳が、とサンダルフォンに咆えようとした瞬間サンダルフォンは強い口調でそう言い放った。サハラに睨まれながら、しかしそれを正面から捉えていた。
「――図に乗るな。羽無し風情が、貴様がミカエルと同じ領域に至れると? 大天使に覚醒すると? 断じて否定する」
「――お前ッ、俺は……!」
「――ルシファーを宿している? 暁の残滓。黎明の欠片。其れは肯定しよう。『其れ』は。だが貴様はルシファーではない」
サンダルフォンは断ずる。サハラはそれに煽られるように格子に組み付いた。
「――いいや、《アルヴァ》だって《セラフィーネ》に至った! 為らば俺だって!」
「――其れが慢心だ。図に乗るな、羽無し風情が。理解しろ、立った所で畜生は畜生だ」
「――お前ッ!」
金属音。サハラが格子を力づくで抜けようとするがびくともしない。胸に黒い物を感じながら、サハラは目の前の天使を睨む。
「――俺は! 俺には!」
「――黎明の力か? だが貴様はルシファーでは無い。
「――サンダルフォン……!」
サハラの金眼が憎しみに燃える。畜生、畜生と言わせておけば、お前たち天使は人間をなんだと……!
「――資格は、在るのか?」
「――なんだと?」
突然のサンダルフォンの台詞に、サハラは聞き返す。そんなサハラに、サンダルフォンは尚も冷たい視線で問うた。
「――貴様だ。貴様に、羽無しを語る資格が存在するのかと聞いて居る」
「――どういう、ことだ」
胸に、楔を打ち込まれた感覚。その先を聞いてはいけない、そう告げる声をどこか遠くに感じながら、しかしサハラは煽れるままに聞いた。
サンダルフォンは至って毅然とし再び問う。
「――資格は在るのか? 最早羽無しとも言えず、されど此方側にも為れず。中途半端で何者でもない、貴様に? あれ等を『畜生と呼ぶな』と?」
「――ち、違う……!」
サハラは思わず頭を抱える。いや、違う。俺は人間だ。人間の、東雲サハラだ。人間の為に戦って、人間を守る為に――
しかし、脳裏をよぎる現状。では先程まで、ルシファーと自分を同一視していたのは? それに……其れに、此の圧倒的な呪光濃度に、もう何も感じていないのは?
「――見ろ。貴様はもう、
「――ッ!」
違う。そう言い放とうとして顔を上げたサハラの目に入ったのは、窓のようなもの。ガラスのような半透明の素材が、真っ暗な虚空を遮る。そしてそこに、サハラ自身の姿も映っていた。
強い感情で見開かれた金の瞳。そして真っ黒だったはずの髪は煤けた銀のように変わり始めていた。それは、もう、まるで……
「――……!」
サハラはその姿を見て再び頭を抱える。俺は? 俺は今、天使なのか? 人間なのか? 俺は、東雲サハラは――
「くそッ!」
サハラは歯を食いしばって、拳を牢獄の壁に打ちつけた。痛みで思考が一瞬晴れ、その間にサハラは自分を取り戻す。
駄目だ、ここにこのまま居てはウリエルの目論見通り自分を失ってしまう。
サハラは顔を上げて、殴った壁を見つめる。もう、人間か天使かは取り敢えずどうでもいい。一刻も早くここを脱出しないと。
「そうだ、考えろ……俺は俺だ、サハラはサハラだ……!」
深く深呼吸しながら、サハラは気持ちを切り替える。俺は俺だ。いつか掛けて貰った言葉を反芻しながら、サハラは脱出する方法を考え始めた。
こちらが次元の
「じゃあ、どうする……?」
サハラは改めて拳を握って、格子を見つめた。イメージするのは、ウリエルの台詞。
「おらァッ!」
サハラは一つ呼吸を置くと、全力で格子を蹴った。鈍い金属音が足に伝わるが、それは鍵を大きく揺らしただけで蹴り破るには至らない。そんな気はしていたが、改めて可能性の一つが潰れる。
「――理解出来ないな」
そんなサハラの様子を見て、サンダルフォンがそう漏らした。
「――ルシファーなら未だ、
サハラはその言葉に返事はせず睨んだ。構わない、その通りだ。俺は俺、ルシファーはルシファー。俺の中にルシファーの力があっても――
「……いや、そうか」
サハラは思い返す。
一度深呼吸をして、サハラは胸の中に意識を向ける。胸の奥にある黒い何かを、敢えて強く意識する感覚。遠くで微かに音叉のような響きが聞こえる。
「――自ら、加速させるとは」
サンダルフォンの皮肉が届く。ルシファーの力を辿ろうとしていると、天使化が進むような感覚はサハラもわかってはいた。しかし、気にせず続ける。俺は東雲サハラだ、と言いきかせながら続ける。
全身が熱くなる感覚。サハラは黒い靄の中から何かを探すイメージで瞑想を深める。……そして、不意にその中で赤い光を感じた。
「これは……」
赤い光を強く意識する。同時に、それがここから遠くない場所にあることを感じる。ウリエルが現れるときのような、天使や聖天機を感じるような感覚。それを意識した途端、サハラはこの赤い光の正体に気付いた。
「《アルヴァ》か……!」
気付けば、簡単な事だった。サハラが感じているのは、《アルヴァスレイド》の気配だった。愛機の場所を、肌の感覚として意識していた。《アルヴァ》が覚醒したのもルシファーの力だから、当然と言えよう。
「だけど、《アルヴァ》か……」
サハラは愛機を頼もしく思いながら、しかしどこか当てが外れたような気分だった。もしあの時の言葉通りなら、《アルヴァ》の近くにはガブリエルがいると見て間違いないだろう。
それに、乗ってもいない《アルヴァ》が頼りになる訳がない。遠隔操作でも出来れば話は別だが。
「……いや、それだ……!」
一つの考えに行きついて、サハラは思わずニヤリとした。笑っている場合じゃないのは分かっているが、あまりにも賭けで、同時に皮肉だった。
同じ舟の中にある、《アルヴァスレイド》を意識する。そして同時に思い出すのは、テノーラン基地を出る直前のウリエルの行動。
ウリエルは格納庫で、《フムス=セラフィーネ》を呼んでいた。……つまり、これは仮説でしかなかったが、サハラは『聖天機は呼べる』という可能性に思い当っていた。
「……なぁ、サンダルフォン。俺はそんなに半端か?」
「――肯定する」
「……上等だよ」
改めて、皮肉に思いながらサハラは笑う。半端な俺と、半端な《アルヴァ》。それでもやるしかない、その状況と根拠のない自信にサハラは思わず笑ったのだった。
俺は俺で、天使ではない。ルシファーとも、ウリエルとも違う。
「……でも、アイツに出来て俺に出来ない訳がねぇ」
意気込んで、《アルヴァ》を強く意識する。取り敢えず、強く強く意識する。ここを、ここを出るために俺に力を貸せ《アルヴァ》……!
――ヴィウン……!
「……!」
確かに、感じた。サハラは《アルヴァ》が応じたのを感じた。いつもの、《アルヴァ》を起動したときの感覚。《アルヴァ》が生きているのを確かに感じる。
呼べば、来るか!?
その感じが確信へと変わりつつある。もっと、もっと強く《アルヴァ》を意識する。そして、サハラは叫んだ。
「――来いッ、《アルヴァスレイド》!」
牢獄に一瞬、静寂が下りる。サンダルフォンは沈黙を保ちながら叫んだサハラを見ていた。だが、サハラはもう――既に、調子を取り戻していた。
「――馬鹿な。片翼の貴様が、聖天機を呼ぶ等」
「《アルヴァ》と俺をなめんなよ……俺たちを」
その時、ふと金属音が鳴る。それは、格子に掛かった錠。それが格子とぶつかって、鳴ったのだった。再び、金属音。錠が格子にぶつかる。そして、また。
「――是、は」
サンダルフォンはそこで気付いた。格子が、
「ここだ、《アルヴァスレイド》!」
――ヴゥゥゥン!
轟音と共に、牢獄の壁が砕け散った。舟の一角が崩れ、もうもうと立ち込める煙の中に、白の機神が現れる。煙に浮かび上がるは金色の文様。
サンダルフォンはサハラの後ろに見えるそれ――《アルヴァスレイド》を眺めながら、声を漏らす。
「――詰まり、否、矢張り暁の残滓か……」
サハラはそのサンダルフォンを一瞥すると、《アルヴァ》の体を駆け上がり、勝手に開いたコックピットへ身を滑らせた。
起動している計器類を確認しながら、そのシートへ腰を下ろす。斬り落とされたはずの腕は、ガブリエルの仕業だろうか、《ドミニア》のそれが接合されていた。全天周モニターから、腕に走る青い文様が見える。
「真っ白になったけど……お前もお前なんだよな、《アルヴァ》」
サハラが操縦桿を握ると、腕の文様が金色に染まっていく。《アルヴァ》の緑眼が閃き、遠くからは天使たちの声と聖天機の文様の音が多く聞こえる。サハラはそんな状況を肌で感じながら、脱出するべくペダルを踏み込んだ。
「東雲サハラ、《アルヴァスレイド》――出る!」
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