第九章 憎悪の拳

第33話 閃光の過去

「タオの調子は?」

「順調に回復してる。今はデオン博士に見てもらってるよ」


 五十嵐タオ――彼女が、『表出化』という暴走を見せてから数日。母親の研究室に呼ばれたサハラはまず件のタオの話を切り出した。


「まぁ、私たちは医者じゃないんだけど、天使化に関しては医者よりよっぽど診てるからね……」


 デスクのアシェラはそう漏らしながら伸びをした。先程までタオを見ていたのかもしれない、その顔は少し疲労を帯びているようにも見えた。しかしアシェラはぱん、と手を打つと話題を切り替えた。


「さてさて、タオも落ち着いたからサハラにもそろそろ表出化の話をしないとね」


 そう、今回呼ばれたのは多分そのことだろう、とサハラも感じていた。

 あの日、デオンとユードに告げられた天使化の症状の一つ、表出化。感情の一つに囚われる、歪んだ進化。

 アシェラは残念そうに「本当はデオン博士とユードにも居て欲しかったんだけどね……」と肩を竦めてみせる。


「親子水入らずってことにしようか」

「親子水入らずでやる話題じゃねーよ」


 相変わらずこの人は、と思いながらサハラは視線で本題を促した。アシェラもそれを了承したようで、簡単に説明を始める。


「サハラもユードやデオン博士からもう聞いてるとは思うけど、表出化っていうのは天使化の症状で、タオで言う『怒り』みたいに感情の一つに囚われるもの、なの」


 そう説明しつつも、なんだかアシェラの表情は難し気だった。サハラがそれを尋ねると、彼女は納得できないといった風に唸った。


「この表出化に関しても、まだよく分かってないのよねー。……ほら、天使の特徴の一つに『無感情』があるじゃない?」

「無感情……あぁ」


 そう言えば、とサハラも思い出す。メタトロン、サドキエル、ハシウマル。いずれも無感情、というか抑揚さえ感じられないほどの口調だった。

 例外もいるみたいだけど、と付け加えた上でアシェラは悩む。


「天使化、なのに無感情な天使からは程遠くなっていく……しかも、呪光に汚染された全員が表出化してるわけでもないのよねー……」


 完全に研究者としての状態になっているのか、ひどく考え込むアシェラ。その中でサハラはふと気になったことを尋ねてみた。


「そう言えば、天使化天使化って言ってるけど実際に天使になった例って何件あるんだ?」

「一件だけ」


 アシェラは迷うことなくばっさりと断じてみせた。


「もう十年以上私たちは天使と戦ってきてるけど、その中で人間が天使化した症例は一つだけ。――アズゼアルの昇天だけ、よ」


 アシェラは少し目を伏せて、そう語った。

 アズゼアルの昇天。このテノーラン基地で十一年前に開発された初の堕天機、《アズゼアル》に関する事故。多くの天使を倒したことと引き換えに、その機体とパイロットは次元のゲートの向こうに消えてしまった。

 アシェラは若くして《アズゼアル》の開発主任、そして幼いサハラもその現場に居合わせていた。


「完全に天使となった例なんて、アレくらいなもの。そもそもあってはいけないことなんだし」


 アシェラはそう呟きながら、一枚の写真をこちらに投げてみせた。

 そこには、白衣の開発班と一緒に、漆黒のパイロットスーツに身を包んだ青年の姿があった。吊り目で、その表情には自信が満ち溢れている。


「彼の名前は、旭ウリュウ。《アズゼアル》のパイロットで、そして唯一の天使化した人間」


 旭ウリュウ。サハラも名前を聞けばぼんやりと思い出せる気がした。母の隣によくいたパイロット。その表情に違わず、いつも自信に溢れていた――気がする。


「天使化を語る上で、ウリュウの話をしないことは出来ないからね。……当時のカトスキアのエースパイロット。初めて天使化の全過程を経験し、天使になった男……まぁ、一瞬だったけどね」


 アシェラは思い出したのか、苦い顔をした。その光景はサハラも、いつか見た映画のように、遠い記憶として覚えていた。白亜の天使たちを屠った後、現れた《ヘルヴィム》。挑んでいった黒い悪魔。そして突然響いた彼の叫びと、閃光。真っ白な光が晴れた後には黒い悪魔は白い翼を得て、そして虚空へ消えていった。一瞬の出来事だったが、しかし忘れられない光景。


「あの一瞬――時間にすると一分もなかったのだけれど、それを後で解析したことがあるの。天使化の過程はそこから導き出されているのだけど……もちろん、その中に『表出化』はあった」


 アシェラは少し考えたあと、続ける。


「ウリュウのそれは……『喜び』というのが正しいのかも」

「喜び……?」


 サハラはその意外な言葉に、思わず聞き返す。サハラの知る表出化はタオのそれだけだったが、あれと同じ症状のもので、そんなプラスの感情があるとは思わなかったからだ。


「そう。表出化で現れるのは負の感情だけとは限らないみたい。ウリュウの場合は、それが『喜び』だった。元々好戦的な彼ではあったけど、それでもあの瞬間の声にはそれ以上の何かがあったの」

「『喜び』……か」


 天使化することで得る、強い感情による衝動。タオが怒りで、旭ウリュウは喜び、だった。アシェラはそこまで話すと、「でもまだまだ研究段階ですらないの」と手を上げた。


「そもそも、天使化なんて進行する方が珍しいのよ? 呪光に汚染された八割の人間はそのまま死亡するわけだし、意図的に天使化させてる『楽園の蛇』計画だって全部が全部上手くいってるわけじゃないんだから」


 サハラは改めて実感する。思い出すのは、デオンに見せてもらったイーナク基地のアンゲロス保管庫の映像。閃光と共に一瞬で灰燼と化す職員。一方『楽園の蛇』のルディ、ハウ、タオ。三人もまた、特殊なパイロットスーツ、短い活動時間、そしてリェスタの浄化という厳密な管理のもとで活動していた。そして、それでも発症した表出化。


「タオは今回で表出化が現れたのは三度目。……あの子、元々感情的だからか、他の新型パイロットより多くてね……。そう言えば、どこかにも天使化が進んでて感情的になりやすいパイロットがいたような」

「ぐ……」


 アシェラのあてつけるような台詞に思わず呻いてしまったサハラ。否定は出来なかった。自分が感情的なことは重々承知だし、タオのことだって他人事のようには思えない。

 サハラは己の両の掌を睨む。表出化。自分はまだ――まだ? 本当に『まだ』だろうか。思い出されるのはあの「静かな興奮の渦」。初めて《アルヴァ》を駆ったときに呑まれたそれ。アレが、表出化なんじゃないか。タオの様子を思い出して、サハラは思わず拳を握り締める。


「大丈夫よ、心配しないで」


 アシェラはそう笑って、サハラの背中を思いっきり叩いた。


「いってぇ……」

「悩むなんてあんたらしくないでしょ? それに、表出化のトリガーになるのは何か大切なものを失った時やそれが危険に晒されたとき。よっぽどのことがない限り表出化なんてしないから大丈夫」


 さぁ立った立った、とアシェラは急かすようにサハラを研究室の入り口まで追い立てる。されるがままになっていたサハラが何か言いたげに振り返ると、彼女は自信満々にサムアップしてみせた。


「もしサハラが表出化なり完全な天使化なりしても大丈夫。私が繋ぎ止めてみせるから。私があんたの何だと思ってるの?」

「……母さん」

「それでいい。さ、悩んでる暇があったら修理中だっていう《アルヴァ》の様子でも見てきたら? ……そうだ。今度の出撃、勝ってきたら久しぶりに何か作ってあげようか」

「……いいよ、母さんは忙しいんだしそんな暇あったら休め」


 サハラはなんだか急に気恥ずかしくなると、それだけ告げてアシェラの研究室を出た。……全く、俺をいくつだと思ってるんだか。


「お前もガキなんだな」

「うぉっ!?」


 研究室を出てすぐ、隣から掛けられた声にサハラは驚く。見れば、先程の会話を聞いていたのかシューマがニヤニヤしていた。


「ガキじゃねぇよ……立ち聞きなんて趣味の悪い」

「悪い、親子水入らずだったのにな……くくっ」

「ぶっ飛ばすぞ」


 サハラはシューマを睨みながら、そう言えばと尋ねる。


「お前はなんでこんなとこにいるんだよ」

「ちょっと東雲博士に聞きたいことがあってな……でも後でいい。お前は?」

「俺? ……そうだな」


 サハラはこれから用もないことを思い出す。行く当てもないので、先程アシェラに促されたように格納庫にでも行くことにした。

「じゃあ俺も行くかな」

「勝手にしろ」




「お、珍しい組み合わせだ」

 格納庫の近く、サハラとシューマを見てそう声を上げたのはルディだった。彼女も乗機を確認しに来たのだろうか、パイロットスーツではない。


「サハラと……えーっと、アンタなんて言ったっけ」

「シューマだ。白雨シューマ」

「そうそう、白雨シューマ」


 また忘れるぞコイツ、とルディの顔を見ながら思うサハラ。それはシューマも思ったようで。


「どうせ忘れるだろお前」

「ははは……。『楽園の蛇』の仲間になったら覚える」

「考えておくよ」


 シューマの皮肉めいた台詞を聞きながら格納庫を進んでいると、セイゴ隊の《アステロード》とルディ隊の《デイゴーン》が見える。いずれも修復作業中で、痛々しいきずが残っていた。頭部を失った《アステロード》、腕のひしゃげた《デイゴーン》。そして何より目を引くのが達磨のように四肢のない疵だらけの《デイゴーン》だった。


「これはしばらく出撃できないな……」

「アタシの腕は誰かさんがぶつかってきたせいだけど」

「悪かったよ……文句ならガブリエルに言えよな」


 サハラがそう話していると、奥の方に赤い装甲が見えた。見れば、《アルヴァスレイド》……しかし、その様子は他のセイゴ隊、ルディ隊の堕天機とは一線を画していた。


「マジか……」


 驚くシューマ。彼ら三人の目線の先には、既に両腕を取り戻しつつある《アルヴァ》の姿があった。


「さすが《アルヴァスレイド》ってこと?」

「もうさすがの次元は超えてるよ」


 驚いている三人にそう告げたのは、ちょうど《アルヴァ》の方から歩いてくるゴロウだった。


「おっちゃん……わざわざこんな早く修理を」

「こんな早く? それはこっちの台詞だ」


 ゴロウは難しい表情で《アルヴァ》を見上げる。サハラはその中に、不信感を感じた。


「化け物だよコイツは」

「化け物?」

「あぁ」


 ゴロウは《アルヴァ》を睨む。


「元々コイツの修復速度は尋常じゃなかった……。生きてる訳でもねぇのに『いつの間にかくっついてた』ってことがある。特に今回はおかしい」


 ゴロウはサハラの肩に手を置いた。


「サハラ、コイツは進化してる。覚悟しておかねぇとお前の手に負えなくなるぞ。……近いうちにな」


 サハラは改めて己の愛機を見上げる。ルシファーの力で目覚めた赤い機体、《アルヴァスレイド》。今は起動していないその機体が、サハラはどこか光を帯びているように見えた。





 ――それは、夜深く。

 闇に包まれたテノーラン基地の廊下を、一つの人影が歩いていく。月の無い夜。その表情は見えないが、足取りは確かに、そしてどこか懐かしむように。

 夜闇を楽しむように、人影はどこかを一直線に目指し、辿り着く。まだ明かりのある研究室。人影はノックをすることもなく、手でその扉を押し開いた。


「あら、こんな時間に誰――」


 物音に気付いて、デスクから顔を上げた部屋の主――アシェラの表情が、凍る。訪問者はその金色の瞳で彼女を見つめながら口を開いた。


「――相変わらず仕事熱心だな? アシェラ」

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