第34話 アシェラ
その顔に――見知った面影を残した全く知らない顔に、アシェラは絶句する。対する人影はぐるりと研究室を見渡した。
「――成程。広くなったが御前の研究室だ……」
まるでよく知った場所を歩くように訪問者はゆっくりと歩を進める。その背中にある一対の白が、揺れる。物色するように辺りの資料を眺めていた彼は、ふとニヤリと笑った。
「――……もう十年以上前……か?」
「ッ……!」
その言葉に、アシェラは息を飲んだ。それは、己の予感を裏付けられた衝撃と、彼があの頃のような顔をしたから。しかし、アシェラは己を取り戻すと、冷静を装って、或いは驚愕を押し殺して尋ねる。
「……どうして」
「――如何して、とは何を聞いて居る。あの時の事か? 今か? 其れまでか?」
音もなく、そしてひどくおかしそうに笑う彼。アシェラは少しずつ近付いてくる彼から、遠ざかるように下がりながら答えた。アシェラの表情が、頭の中で不快に反響する彼の声に歪む。
「全て。なぜそんなことになっているのか。なぜここにいるのか。なぜ誰も気付いていないのか」
「――相変わらず質問が多いな。研究者の性、と云う奴か? 其れとも興奮か? 見た事は無いんだろ……最終的に如何成るか」
「えぇ。見るのは初めて。あなた、今まで一体――いいえ」
アシェラはそこで強く訪問者を睨んだ。
「そもそもあなたは本当に――」
「――ッ!」
サハラは何かに弾かれるようにして目を覚ました。一日を終え、テノーラン基地の自室で寝ていたところだ。
時計を見る。まだ深夜、目を覚ますにはどう考えても早い、そして背中には尋常じゃないほどの汗をかいていた。また夢を見たのか。いやそうじゃない。サハラはこの汗の正体がわからなかった。
「でも……!」
サハラの胸の中には漠然とした、しかし大きくて濃い『嫌な予感』が立ち込めていた。何か、何か大変なことが起きようとしてる。理由の見えない焦燥感に駆られながらサハラは考える。何だ、この感じは何だ。
そんな中、サハラは不意に顔を上げる。
「……母さん……?」
声が聞こえたわけでも、物音がしたわけでもなかった。しかし、何か強い勘のようなもの――否、感覚のようなものがアシェラの名前を告げていた。そして呟いた途端に、サハラは『嫌な予感』がぐっと重くなったのを感じる。
「母さんに何かあったか……!」
サハラは己の感覚を信じると、それに背押されて部屋を飛び出した。目指すは母の研究室。廊下を駆け抜けながら、サハラは例の音叉のような耳鳴りがしていることに気付く。しかし、メタトロンから何かを呼びかけられてはいない。母の研究室に近付くにつれ、耳鳴りと予感が大きくなっていく。
「……ッ!」
角を曲がって、見えた。母の研究室は明かりがついたまま、そして扉も開いている。嫌な予感と黒い焦燥感が加速して、サハラはそのまま研究室に飛び込んだ。
「母さんッ!」
そこには。
「サハラ……!」
「――矢張り呼ばずとも来る、か……待ってたぜ、東雲サハラ」
普段とは全く変わらない、研究室。その中で、アシェラと訪問者が机を挟んで睨みあっていた。母と対面する彼の姿に、サハラもまた、言葉を失う。
「お前……は……!」
「――良い反応だ、東雲サハラ……天使を見たのは初めてか?」
彼はそう言うと、全身を晒すように両手を広げてみせた。銀髪。金眼と黒眼のオッドアイ。そして背中の一対の翼。両の掌に炎のような緑色の文様。その容姿はまさしく、いつかテノーラン基地の地下深くで見たメタトロンのものとよく似た天使のものだった。
しかし。サハラとアシェラを襲っている驚愕はそれではない。
「――いや、初めてでは無いな? ……成程、御前も地下の堕天使を見せられたのか」
是は益々面白い、と笑う天使。サハラは頭の中で微かに響くその声に聞き覚えがあった。同時に、天使を睨みながらサハラの拳が握られる。
「……ウリエル……!」
「――俺が御前を判るように御前も俺を判る……流石、と言っておこうか」
己の名前を言い当てられて、訪問者――ウリエルは楽しそうに笑った。かつて二度、《ヘルヴィム》でサハラの前に現れ、打ちのめした天使。そのウリエルが、今、目の前に立っていた。
「――斯うして遭うのは初めてか?」
「お前……何しに来た……!」
サハラは腰の辺りを探り、付けていた銃に手を掛ける。しかしウリエルはサハラの問いには答えず、喜ぶように笑った。
「――そうか。流石に其処は覚えて居なかったか! ……そうだな」
ウリエルがじりじりとサハラの方に歩みを進める。サハラは威嚇のため銃を抜こうとしたが、しかし気付いたときには既に目の前にウリエルがいた。
「ッ!?」
「サハラ!」
突然のことに困惑するサハラ。声を上げるアシェラ。ウリエルは一瞬だけ禍々しく笑うと、一転して今度は精悍な表情になってみせる。まるで人間の青年のように自信ありげな表情のまま、ウリエルはサハラの頭に手を乗せた。
「よう坊主。俺が母さんと一緒にいるのがそんなに気に食わないか?」
ウリエルの声。しかし、そこに天使特有の不快な響きはなく、まるで人間の青年が、仕事をする同僚の幼い息子に語りかけるような口ぶりだった。そしてそれを知覚した瞬間、サハラの顔はサッと青ざめ、ウリエルの手を振り払って飛び退いた。
「――はははは、どうだ? 東雲サハラ。いや……『坊主』」
「おい、今の……ッ!」
サハラは足元が不意に崩れるような不安の中、ウリエルを睨んだ。ウリエルが今、自分に何をしたのかはよくわかっていなかった。しかし、サハラはどこか懐かしい部分に触れられたような、そんな気がした。
「お前、俺に何を……!」
「――何を? 昔みたいに撫でただけさ『坊主』」
「昔みたい、に……?」
サハラの胸中で嫌な予感が加速する。ウリエルはその様子を楽しむように、そして悦ぶように語る。
「――昔からお前は俺がアシェラと共に居ると気に食わなさそうだったからな……まるで今の様だな?」
皮肉、と言わんばかりにウリエルは朗々と語る。アシェラの表情がどんどん曇り、サハラの中で何かが繋がろうとし始める。幼い記憶が、閃光の向こうの記憶が立ち上がってくる。
「――お前も見ていたんだろう? 俺が変わるのを」
「……!」
そのウリエルの言葉に弾かれたようにサハラはポケットの中を漁る。確か、確か日中ここで母に貰ったまま――それらしい紙片に手があたると、サハラは広げる。
「い……いや、でも……!」
「――ん?」
サハラの手元を見るウリエル。彼はそれが何なのか気が付くと懐かしむように口を歪める。
「――其れか……懐かしい物を持ってるじゃないか、サハラ。……ああ、そうだ。やっと思い出したか?」
サハラが手元の紙片を見る。完成した《アズゼアル》を背にして、十数人が映る写真。中央に、若かりし頃の母・アシェラ。そしてその隣に映る、自信あり気な青年。その顔は……
「……お前、まさか……!」
その顔は、目の前に立つウリエルと全く同じ顔だった。
「――あぁ、その通りだ東雲サハラ!」
自分が誰なのか。それを知られたことがさぞ喜ばしいのか、ウリエルは恍惚とした表情で天井を仰ぐと、サハラの顔を覗きこんだ。
「――俺はウリエル。嘗ての名を旭ウリュウ! 『アズゼアルの昇天』の男だァ!」
「馬鹿言えッ! これは十年前の写真だぞ!?」
「――だが其れは俺だ! 其れが紛れも無い俺である事はお前の記憶が証明するんじゃあないのか東雲サハラァ!」
サハラはそこで言葉に詰まった。声も、顔も、サハラの遠い記憶では肯定は出来ても、否定は出来なかった。その様子を見て、ウリエルが憐れむような声をかける。不意に肩に手を置かれ、耳元で囁かれる。
「――安心しろ。お前も
「くそッ!」
サハラはそれを振り払うと憎しみを込めて睨んだ。思い出されるのは、かつて居たユデック基地で蹂躙される仲間とそれを楽しむウリエルの声。
「お前と一緒にするなッ!」
「――いいや同じだ東雲サハラ! 現にお前も天使の眼をして居るじゃあないか!」
仲間を喜ぶように笑うウリエル。サハラは研究室の窓を見る。明るい室内と月のない夜の外、窓は鏡のようによくその姿を映す。そこには、金色の瞳のウリエルと同じ金色の瞳のサハラが映っていた。
「……!」
サハラの脳裏に思い出される言葉。旭ウリュウの二の徹、『アズゼアルの昇天』の再来、二人目の片翼……。朝霧やデオン、メタトロンの表情までもが浮かび、サハラはそれを振り払うように頭を振る。
「違う……俺とお前は……ッ!」
「サハラ、惑わされないで」
アシェラの必死な、しかし強い声が耳に届いて、サハラはようやく我に返る。額から垂れる汗を感じながら、サハラはいよいよ拳銃を抜き放ちウリエルへ向けた。
「そもそもお前、どうやってここに来た……!」
次元の
「――呪光反応か? くくっ、あの程度なら次元翼には訳は無い。守衛らは知らんな。今頃寝てるんじゃないか? 永く……な」
「次元翼……!」
アシェラが息を飲み、ウリエルの口元が邪悪に歪む。その表情から何が起こっているのか察する。……少なくとも、守衛らに関してはサハラにとっても明らかだった。
「お前ッ……!」
「――俺はもう只の人間には興味が無い。雑魚には興味が無いんだよ、東雲サハラ……」
再び禍々しく笑うウリエル。そして彼は不意に、ひどく無感動な、無感情な声でこう告げた。
「――進化も出来ぬ、戦わぬ無価値の雑魚には」
――銃声。
「……あ…………?」
それは親子どちらの声だったか。
一瞬の出来事だった。
銃を構えていたサハラ。ウリエルは刹那の隙にそれを奪うと、瞬く間に引き金を引いたのだった。
「……サハ、ラ……?」
「母さん……母さん!」
東雲アシェラに向けて。
硝煙の向こうで白衣を真っ赤に染めた母を認めた瞬間、サハラはウリエルのことを忘れ夢中で駆け寄っていた。
「母さん! 母さん!」
「サハ、ラ……!」
重心の崩れたように倒れる母を、サハラは腕に抱きかかえる。その様子にウリエルは高らかに喜びの声を上げる。
「――くくくく、く、あはははははははははははは! 一度限り! 一度限りの闘争だが、新たな闘争の幕開けとしては相応しい! 東雲アシェラは死んだ! くっ、はははは! 殺し合う事こそ出来なんだが殺せはした! 上々だぞ!」
「ウリエル……ッッ!」
己の母を撃った天使を、そして何よりその事実をこの上なく喜ぶウリエルの姿に、サハラの中で烈火が
「駄目。駄、目……そのまま、呑まれては……」
「母さん、でもッ! でも……!」
腕の中で熱くなる母の体にサハラは色んなものが溢れそうになる。しかし、彼女の目は強い光を宿していた。
「私は、油断しちゃった……けど……」
「違うッ! 俺が……俺が……ッ!」
「でも、サハラ。よく……聞い、て」
自分を責めようとするサハラの頬に、母の手が添えられた。彼女はしっかりと、サハラの顔を自分に向けた。サハラの頬が消えゆく母の体温と濡れた血で熱くなる。
「サハラの力は……誰でもない、サハラの力。……ウリュウでも、ルシファーでも、ない。……だから、サハラなら、きっと……」
「母さん、駄目だっ! まだ、まだ今なら……!」
急激に腕の中の母が冷たくなりつつあるのを感じたサハラは、そのまま抱えて走り出そうとする。しかし、それは叶わなかった。
「――其れなら」
不意に上から降ってくる声。
「がぁ……ッ!」
次の瞬間、サハラはウリエルに蹴り飛ばされ研究室の壁に叩き付けられる。床に力なく伏せるアシェラ。ウリエルはそれを酷く冷徹な目で見下ろすと、首を掴んで持ち上げた。
「あ……が…………」
「母さんッ!」
呻き声を上げる母。サハラがウリエルへ殴りかかるが、ウリエルはそれを一蹴してみせた。机に激突するサハラ。母の集めた書類が舞い、床の血で赤くなっていく。白かった研究室の中が、赤く染まる。
「――最期に、賭けでもするか。アシェラ」
お前は賭け事しなかったからな、と呟きながらウリエルはどこかから小さな結晶を取り出す。それは虹色の光を放っている小石サイズの結晶。サハラはそれを見て、それが何なのか気付く。
「……おい。お前、それ……」
「――気付くよなァ東雲サハラ……。あぁ、堕天機乗りなら見てるもんなァ」
楽しそうに笑って、ウリエルはその結晶を蛍光灯に透かした。
「――『アンゲロス』。人類がそう呼ぶ物の小型結晶だ。是で、賭けだ」
そこまで聞いて、サハラはウリエルが何をしようとしているのか勘付いた。立ち上がろうとするが、蹴り飛ばされた衝撃で上手く体が動かない。
「おい、待て、お前ッ!」
「――是を、アシェラに飲ませる。上手くいけば天使化して助かるぞ?」
「ぐ……や、めっ…………」
楽しそうなウリエル。アシェラは首を掴まれながら、絞り出すような声。首を必死に降り逃れようとするが、全くの無駄だった。サハラの目の前で、アシェラの口が強引に開かれ、決勝が近付けられる。生気を失いつつある、しかしまだ確実に生きている母の顔が虹色の光で照らされる。
「おい……おい、やめろ! やめろウリエルッ!」
「――くく、はははははは」
「やめろって言ってんだろうが! くそッ! おい!」
「――では……賭けの時間だ」
「やめろおおおおおおおおおッ!」
ウリエルの掌から、結晶が零れた。
目を見開いた母の口にそれは転がり込み――そして、同時に目が潰れるほどの閃光が研究室を真っ白に染め上げる。その閃光は刹那だったが、サハラにはひどく長く感じられた。
そして。
「――――――」
視界が元に戻ったとき。
サハラの見つめる先――ウリエルの足元には、東雲アシェラだった塵が、床の血と共に赤黒く積もっていた。
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