第35話 人を外れし者
「お、おい…………母……さん……」
サハラはまるで氷で殴られたように頭が冷めたのを感じた。急に何もかもが遠くなって、それでいて何も考えられなくなる。目の前の現実を、ただ、ただ眺めることしか出来ない。
母、東雲アシェラ。
カトスキアの若き研究者にして、テノーラン基地の頭脳。堕天機の開発者で……誇れる母親。
先程まで母親がいた、その真下の床に積もった塵。さらさらとして、見ただけでは元がなんだったのかよく分からない塵。
サハラは何が起こったのか理解はできなかった。しかしその一方で、どこか遠く高いところにいる自分が『あぁ、これが母さんか』と冷静に現実を見ているのも事実だった。
「あ、れ…………えっ……と…………」
さっきまでぐつぐつと煮えていた黒いものが、急に冷えて固まる。それが頭の至る所に詰まって、何も出来ないでいた。サハラはただ、目の前の塵を見つめる。
「――終わってみれば」
そんなサハラの耳に届く声。ウリエルはアシェラを掴んでいた手を下すと、酷くつまらなさそうにそう呟いた。
「――終わってみれば、呆気無い物だ。東雲アシェラ、つまらない人間だった」
自分にも少しかかった塵を、無造作に払うとその視線は呆然とするサハラへ向く。
「――
その声が届いたか、サハラが呆然としたままウリエルを見上げる。その目からは光が失せ、どこを見ているのかも定かではなかった。
「お、い……ウリエル……お前、何をしたか……わかって……」
「――俺が何をしたか、だと? くく、未だ理解出来んのか?」
ウリエルはおかしそうに笑うと、アシェラだった塵の中を少し探る。そしてその中から、未だ燦然と輝くアンゲロスを取り出してみせた。アンゲロスのその虹光を、芝居がかった調子で見つめる。
「――東雲アシェラには資格が無かった。故に、天使に成らず灰燼と化した。……此のアンゲロスに触れて」
「それは、お前が……」
「――ああ。俺が殺した」
ウリエルの口元が歪む。それを見たサハラの中で黒い何かが生まれる。燃える霧が胸の中に立ち込める。母は死んだ。母は殺された。目の前の、この男によって。その事実が頭の中を高速で巡り始める。
「お前が、母さんを……!」
「――そうだ、俺が殺した」
ウリエルはそう強く繰り返しながら足元に積もっていた塵を踏みにじった。サハラの目が更に見開かれる。その前で、ウリエルは煙草の灰をそうするように踏み潰し、そして蹴り散らした。研究室の床で塵が広がり、その一部がサハラの顔にもかかる。それを知覚した瞬間、サハラの中で何かが目を開いた。
「お前……お前……お前!」
「――如何した?」
わなわなと震えるサハラ。食いしばった歯が軋み、喉が唸る。ウリエルの投げかけた煽るような言葉に、サハラは猛然と咆えた。
「それは、それは母さんだったんだぞ!」
咆えると同時に、サハラの中で何かが熱くなり始める。ぐらぐらと煮え滾り、今にも爆発しそうになる。
そのサハラを見て、ウリエルは無感動に吐き捨てた。
「――違うな。今と為っては只の塵だ」
それが、最後だった。只の塵。しかしサハラにはまだそれは母だった。抑えようのない怒りが決壊し、サハラは体の動くままウリエルへ飛び掛った。
「旭ウリュウ……ウリエルァァァァアアアアアア!」
「――其れだ!」
間一髪、サハラの拳を躱してウリエルは歓喜の声を上げた。
「――其れだ、其れを待っていた!」
「おおおおおおおおおおッ!!」
ウリエルの歓喜に煽られ、サハラの感情が更に黒く染まる。放った拳はいなされ、蹴りは軽く受けられる。しかしサハラの体は止まらなかった。一心不乱に、ただ、目の前の仇を討つためだけに。
「――如何した、其の程度か!」
サハラの感情に応じるように、ウリエルの歓喜の声も強くなる。まるで子供の相手をするように、ウリエルは手でアンゲロスを弄びながらそう笑う。
サハラは全身が燃えるような感覚と激しい耳鳴りを感じた。視界の片隅に先程の拳銃が映る。サハラはウリエルを蹴りながらそれを手にした。
「お前……ッ! 貴様ッ! お前ッ!」
「――くく! 撃てるのか、今度は!」
煽るように身を翻すウリエル。今度のサハラに迷いは存在しなかった。銃口を向けると同時に引き金が引かれる。狙いは定めていない。火を噴いた銃口はウリエルの手にしていたアンゲロスを打ち砕いた。光と共に爆ぜる。
「――ガブリエルから拝借した玩具だ、見事命中だな? んん?」
ウリエルは一旦立ち止まってそうお道化ると、笑い声と共に研究室を飛び出した。サハラはそれを射殺すばかりに睨むと、弾丸と化して後を追う。
「――良いぞ、実に良い! 其れが表出化だサハラ!」
「お前が! お前が来なければ! 居なければッ!」
テノーラン基地の真っ白い廊下を二つの影が駆け抜けていく。銃声と歓喜と憎悪が木霊して、同時にサハラには何も聞こえなかった。
「お前の! お前のせいでッ! 母さんは!!」
「――違うな東雲サハラ!」
ウリエルはそこで振り返ると、足を止めぬまま語る。
「――お前は先刻聞いたな! 『何しに来た』と! 答えよう。俺はお前に会いに来た! くく、お前を目覚めさせる為に!」
「黙れ! 黙れッ!」
「――俺は、俺は斯う為ったあの日からずっとお前が現れるのを待っていた! お前が、否、二人目の覚醒者が現れるのを!」
「違う、俺とお前は! お前なんかとは!」
「――同じだ東雲サハラ! 俺は、お前の様な猛者との闘争だけを楽しみにして居た。ああ、今が其の始まりだ! 俺はお前を目覚めさせる為に来た!」
「なら! 母さんは関係無かった! お前は俺に用があったんだろうが!」
「――東雲アシェラは鍵だった!」
夜闇の下りた白い廊下。サハラはウリエルに導かれるようにその中を駆け抜けていく。どこを走っているのかは分からない。ただ、目の前の母を殺した男を追っていた。銃は撃ち尽くし、既に投げ捨てた。ナイフを取り出し、切り付けるように追う。耳鳴りは常となり、最早鳴っていないのと同義になり始めた。
ウリエルは一瞬を楽しむように、恍惚とした邪悪の表情で語り続ける。
「――表出化。天使化の段階、開かねば為らぬ扉。お前は未だ其れを抑えていた。己の中で猛る翼を飼っていた。その鎖を解かねば為らなかった! 檻を砕かねば為らなかった!」
其れが俺の望む闘争を生むのだから!
高々と宣うウリエルを、サハラは一心不乱に切り付けていく。しかしその刃はウリエルにあと寸分届かない。振り回すように、暴れるように振るわれる刃をウリエルは楽しむ。
「――くく、かはははは! 知っているか、表出化の鍵を! なぁ、東雲サハラ!」
「そんな……ことッ!」
知ったことか、そう言おうとしたサハラだったが脳裏に日中聞いた母の言葉が蘇ってくる。
『表出化のトリガーになるのは何か大切なものを失った時やそれが危険に晒されたとき――』
日中の母の様子を思い出して、胸の中の熱い憎しみが哀しみさえも覆う。母さんは頼ってくれと言った。でも、俺は、結局……!
そんな青い憎しみと同時に、一つの可能性がサハラの頭に浮かぶ。それは真っ黒な、最悪の可能性だった。そしてそのハッとした気付きを、ウリエルが悟る。
「――其れだ。そう云う事だよ東雲サハラ……!」
「違う、俺は、お前が……!」
「――いいや、お前が今至った可能性が俺の答えだ!」
ウリエルは至極楽しそうに顔を覆うと、そのオッドアイをかっぴらいて言い放った。
「――アシェラを殺したのはお前だ! お前が居たから、アシェラは死んだ!」
「違う! 殺したのはお前だ!」
「――違うものか! 東雲アシェラは鍵だった! 他でも無い、お前の! 故に殺した! お前が息子だったから母は死なねば為らなかった!」
「黙れ! 黙れ黙れ黙れ!」
母の顔が浮かんでは消える。昼間の、いつもの頼れるアシェラ。研究室に飛び込んだ時の気丈なアシェラ。撃たれた瞬間の呆けたアシェラ。腕の中で冷たくなるアシェラ。そして、ウリエルにアンゲロスを口へ入れられた瞬間の――
「ああああああああああッ!」
ナイフが空を、思考に浮かぶ母の影を切る。サハラの金眼が燃え、ウリエルの声に応じるように胸の中の黒い感情が咆える。体が動く。何も見えず、何も聞こえない闇の中で、サハラはただ目の前の男だけを追っていた。哄笑が耳を覆う。
「お前が居なければ死ななかったんだ! お前が! お前のせいで!」
「――ああ、其の通りだ! だがお前も同じだ! お前が居なければ死ななかった! お前が! お前のせいで!」
「違う! 俺はお前とはァァッ!」
「――同じだ! 云った筈だ! お前も何れ斯う為る、と!」
哄笑、怒号。歓喜、憎悪。二人の覚醒者は夜闇を走り、サハラはいつしか格納庫に至っていたことに気付く。ウリエルはそこで立ち止まると、サハラとの距離をとるように飛び退いた。サハラも足を止め、ウリエルを睨む。その背には完全に修復された《アルヴァ》もあった。
「――憎悪! 其れがお前の感情か! 母を俺が殺したからか? 否! お前が母を殺したからだ! サハラ、お前がアシェラを!」
「黙れッ!」
サハラが咆え、《アルヴァ》の瞳が刹那だけ煌めく。ウリエルはそれをひどく楽しそうに、まるでクリスマス早朝の子供のような表情で眺めた。
「――良いぞ……是だ。此処が俺の待ち望んでいた戦場だ。くく……くはははははははは!」
ウリエルはひとしきり笑うと、歪な微笑みを湛えながらサハラへ語り掛ける。
「――なぁ東雲サハラ。俺たちは堕天機乗りだ。共に堕天機を超えた者を駆る、人を外れた者だ」
「違う。俺は、お前とは……!」
「――そうか。……俺が憎いか? 母を殺した俺が。お前に代わって母を殺した俺が。お前の未来を映す俺が!」
「俺はお前の様にはならないッ! 俺は、俺は!」
「――為らば来い! 殺したければ来い。
ウリエルの声が大きくなる。そして彼は両腕を広げると無人の格納庫にその名を轟かせた。
「――来たれ我が緑炎の大翼! 《フムス=セラフィーネ》!」
次の瞬間、その呼び声に応じるかのようにウリエルの背にしていた格納庫の壁が爆ぜ、崩れる。青黒い夜空が口を開け、そしてウリエルの背に大きな影が見える。
「――今までお前と遭う時は常に《ヘルヴィム》だったか……」
サハラは、ウリエルの後ろに現れた巨影を睨む。それは、《ヘルヴィム》とは全く違う機体だった。
「――だが、あれは本来の俺の機体ではない。……くく、是が俺の牙だ」
陶器のように白い体躯、全身を駆け巡る黄金の文様。背に見える六枚の羽。最も目を惹くのは、背面から生えた、巨大な緑の両腕。そう、四つ腕。緑の怪腕は肩についた普通の腕の二倍ほど大きく、その掌に何か巨大な球体も見える。
そして頭部は、かつてどこかで見た《アズゼアル》のものと酷似しており、右側は仮面がはがれたように黒い素の《アズゼアル》が垣間見えていた。
「――俺とお前! 《フムス》と《アルヴァ》! 何方が強いか、闘争だ! 待ち侘びた闘争だ……くはははははははは!」
ウリエルは高々と笑うと、煽るように《フムス》へ乗り込む。そしてそれを見るや否や、サハラの体も動いていた。翻って走り出し、背にしていた《アルヴァ》のタラップを飛ぶように昇る。半ばこじ開けるようにコックピットへ飛び込んだ。サハラに呼応してか、《アルヴァ》は既に起動を終え、目の前の《フムス=セラフィーネ》を睨む。モニターの向こうで、《フムス》の文様が輝きを増した。
『――死合だ! 飛べ、東雲サハラ!』
そう言いつつ、三対の翼を広げ飛翔するウリエルの《フムス》。サハラはそれを睨むと、体を駆る憎悪のまま、雄叫びと共に飛んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます