第44話 到達

 頭痛や吐き気が収まっていることに気付いたのは、本八合目を過ぎてだいぶ走った後だった。

 登山の経験などほとんど無い礼子は、バイクで富士山を登り初めて以来ずっと高山病に悩まされていたが、ここ数日のチャレンジで未到達の高さに達したあたりで、苦痛から開放された。

 集中力散漫になっていた頭がはっきりしていくのがわかる。ブルドーザ登山道に広がる石礫の一つ一つがよく見える。自分が走っている位置さえ感じ取れる。

 高山の低酸素でパワーを落としていた125ccエンジンのハスラーは、驚くほど調子がいい。

 さっきまで路面の突き上げで激しく揺れていたハスラーも、今は低山の整備された林道を走っているかのような優しい振動を伝えるのみ。ハスラーが自分の思うままに走ってくれる。

 危険な状態だと思った。

 身体に危機を伝える感覚が麻痺している状態。徒歩登山もこういう状態になることはあるらしい。自分がどんな険しい坂道も歩けるような錯覚に陥り、そのまま滑落や意識混濁による行動不能を起こし、それ以上動けぬまま山に命を差し出す。

 

 礼子は迷わず登攀を続けた。今の自分が登山を中止すべき状況だとしても、それでも登りたい、もっと高く。

 無謀な行動の背を押すように本八合目の道標が視界に入る。脳よりも体に染み付いている操縦技術で登坂とターンを繰り返し、本八合目を通過した。 

 そこから次の標識、八合五勺の場所までどう走ったのか覚えてなかった。

 走っていたら着いた。礼子は半ば気を失いながらハスラーを操縦していた。更に角度を増す登山道をタイヤをこじりながら登る。

 スロットルを全開にしてもなお進みの遅くなるハスラーを、力任せに操っている自分が、別の世界のもののように思えてくる。次は九合目だということを忘れそうになる。

 本八合目から八合五勺目があっという間だったのに比べ、次の九合目までの道は長かった。

 代わり映えしない夜中の国道を一晩中走っているかのような思考になってくる。どこまで走っても見えないと思った頃に九合目が見えてきた、通過してもここが何なのかわからない。

 もう残りの道がどれくらいあるかを考えることすら出来なくなっている。


 ハスラーの前輪が宙に浮いた。重心移動で何とか元に戻そうとする。タイヤは接地してくれない。それならバイクで空を飛べばいい。

 前輪を持ち上げたまま、後輪だけでしばらく走る。

 転倒不可避な状況で持ちこたえるハスラー、それも数秒。バランスを崩したバイクはそのまま地面に倒れ。坂道を転げ落ちる。

 ハスラーは道端の岩にぶつかって止まった。今まで何度かの転倒を経験した礼子は、反射的にバイクを蹴飛ばして地面を滑る。摩擦に弱い作業着が破れ、その下の皮膚を掻き削られた。 

 傷の痛みでそれまで感じなかった頭痛と吐き気に襲われる。こんなひどい物だとは思わなかった、もう山になんて一生登りたくないと思ったが、今すぐ命が終わってしまうのではないかというほど苦しい。

 体を起こせるようになるまで少し時間がかかった。自分の傷よりバイクを先に見る。見なきゃ良かったと思うものが視界に飛び込んできた。


 登山道で転倒、滑落し岩に激突した礼子のハスラーは、外装部品の幾つかが吹っ飛び、タンクにも大きな傷がついている。

 エンジンを打ったらしくクランクケースからオイルが漏れている。車体構成そのものがおかしく見えるのは、きっとフレームも変形しているからだろう。

 礼子は作業ジャンパーの胸ポケットを探り携帯電話を取り出した。その時になってやっと自分自身にも幾つかの傷がつき、血を流していることに気付いた。傷を見た途端、体が痛くなる。

 礼子は転倒のショックでうまく動かない指で携帯を操作し、五合目の山小屋を呼び出した

「えぇ。終わりました。頂上輸送の帰りに拾って貰えますか?」


 山頂まで物資を輸送する山小屋の店主は、すぐに履帯式の輸送車に乗って現れた。

 往路で立ち寄って礼子の無事を確認した店主は、頂上で荷物を下ろした後、帰路で礼子とハスラーを運んでくれた。

 荷台に乗せられた礼子に、普段は無口な店主が話しかける。

「上までは行けなかったか」

 礼子は返事をせず後ろを振り返った。朝陽で霧が薄まり、富士山がよく見える。店主も何も言わず、運転台から後ろに手を伸ばして青リンゴを手渡してくれた。

 礼子は青リンゴを受け取って齧る。サイダーのような果汁が迸る青リンゴが、喉を潤してくれた。

「でも、悪くない気分です」

 九合目の先。力尽きて転倒する寸前の礼子は、朦朧とした意識の中で確かに感じた。手に届くほど近くにある頂を。

 礼子の夏は終わった。 

 

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