第33話 休日

 学生が夏休みを過ごす時期に入ってからも、小熊のバイトは続いていた。

 地元の北杜市にある高校と甲府の提携校が共同で行う教員研修の書類を届ける仕事。

 生徒が長期休日を過ごしてる間に行われる教員研修も、学期中と同じく週末は休み。

 既に朝夕の往復が生活の一部になっていた小熊にとって、一往復幾らの日給が目減りする休日なんてありがたくも無い物だったが、届ける書類が無いのならしょうがない。

 日曜、小熊はいつもより遅い時間に目覚めた。

 普段は甲府まで20km少々をカブで往復する意外と集中力や体力を使う仕事のため、充分に睡眠を取り規則的な時間に目覚めてしっかりと食事を摂り、体調を良好な状態に保つことを意識していたが、休日にそんな事をしてもしょうがないので普段より寝坊をして、食事も食べたい時に食べることにした。

 とはいっても身についた生活時間は変えられないようで、普段目覚ましが鳴る時間より30分ほど余分に寝たところで、もう充分寝たって気分になる、起きてシャワーを浴びると腹が減った。


 焼かない食パンとインスタントコーヒー、丸ごとの青リンゴ。手を抜いた積もりがいつもとあまり変わらない朝ご飯を食べた小熊は、さて何をしようかと考える。

 夏休みに入ってから何度目かの日曜日。前回は部屋でラジオを聴きながら溜まっていた宿題をやって部屋を掃除し、洗濯をしているうちに一日が終わってしまった。

 今回も何かやることは無いかと辺りを見回したけど、宿題は数日溜め込んだ負債分を昨日と一昨日で片付け、今日までの分は終わってる。掃除と洗濯も今は特に必要ない。

 早々にやることが無くなってしまった小熊は、部屋に寝転んだ。

 ラジオはNHK-FMのクラシック音楽を流し続けているが、それだけ聞いてても暇が潰れる物でも無い。

 寝そべったままカーテンを開け、窓の外を見ながら考えた。中学の頃は休みの日に何をしていたんだっけ。


 思い出してみたけど、特に何かをした記憶は無い。失踪する前の母と買い物に行ったことがあった気がする。うっすらとしか覚えてないのは、さほど楽しく無かったからだろう。

 何もすることは無いとなると無駄に広く感じるアパートの一室。窓から見えるのは南アルプスの山々と、アパート敷地内の駐車場兼駐輪場。住民の自転車と小熊のカブが停まってる。

 小熊は体を起こした。何もすることが無かった頃には無いものが今はある。

 パジャマを部屋着のTシャツとスウェットパンツに着替えた小熊は、部屋を出て駐輪場に向かう。

 カブのスタンドを外し、左右を自転車に囲まれた駐輪場から広い場所に出した小熊は、一度部屋に戻って濡れ雑巾を持ってきた。

 夏休みのバイトで雨の日も日照りの日も毎日走り、少し汚れたカブを雑巾で拭き始める。カブの手入れをしようと思ったけど、整備点検の技術など無い小熊には綺麗にすることしか出来ない。


 ほぼ新車の状態で買ってからまだ間もないカブ。車体の各部にタイヤ、ホイールスポークの一本一本まで拭く作業もすぐに終わってしまう。

 買った時のままの輝きを取り戻したカブを見ても、充実した休日を過ごしたという実感は無い。カシオのデジタル腕時計を見ると時間は午前とお昼の間。

 まだ休日はたっぷり残ってる。せっかくカブを買い、趣味も共に暮らす存在も無かった昔の自分とは違う生活を始めたのに、学校やバイトが無いと、昔のないないの女の子に戻ってしまう。

 カブがあるのに。カブで出来ることが増えたのに。今の自分がカブで可能なのは、と思った時、小熊の頭は一つの閃きを得た。

 カブは走ることが出来る。小熊の望む場所まで一緒に行ける。ならば走ればいい。

 とても単純なこと。休日とは自分のしたい事をする日。今の小熊は走りたい。どこかに行きたい。その望みを叶えてくれるカブがある。

 

 小熊はカブを駐輪場に戻し、部屋に帰ってTシャツとスウェットを脱ぎ捨てた。

 この季節にカブで走るのに最適な学校ジャージを手に取りかけたが、それじゃ仕事と変わらない。休日の走りを楽しみたいと思った小熊は、さほど着る物の入っていないタンス替わりのカラーボックスを漁り、持っている服の中で一番活動的なデニムの上下を着る。

 まだ着古したというほど着ていない、少し固いリーヴァイスのデニム上下のまま狭い台所に立ち、炊飯器に残ってたご飯でおにぎりを作り始める。

 往復でも1時間少々の仕事とは違って、どれくらい走るかわからない。腹が減ってどこかで食べ物を買うことになれば不要な出費になる。

 日払いのバイトで小熊の財布と通帳は温かかったが、今の不安定な暮らしを考えると無駄使いしていい金は無い。小熊のために。カブのためにも。

 おにぎりと漬物だけのお弁当を作り終わり、冷蔵庫の麦茶をペットボトルに詰めた小熊は、以前ヘルメットバッグとして使っていた生成りの布製バッグに弁当とお茶、特売でまとめ買いした青リンゴを入れ、財布や携帯をデニムのポケットに詰め、ヘルメットと鍵を手に取った。

 外に出ようとした小熊は一度引き返し、部屋に置いてあったポータブルラジオをバッグに入れる。

 これからカブで休日を過ごしに行く。仕事や通学とは違った走りに必要なのは娯楽性。

 音楽でも何でも、潤いというものを加味するべきだろうと思った。

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