第49話 修学旅行

 父を失い母に逃げられ、奨学金で慎ましく暮らす小熊にも楽しみというものがある。

 月に一度の奨学金振込み。

 タダで貰えるわけではなく無利子の学費貸付けで、完済はこの山梨にリニアモーターカーが来る頃だと言うが、とりあえず自分がこの世界で生きていてもいいという事実を、最も確かな形で証明してくれるのは通帳の残高

 学校の帰り道にある信金のATMで通帳に記帳した小熊は、毎月代わり映えしない記録を眺めた。

 学生の教育を支援する財団から口座に振り込まれる金は結構な額だけど、そこから学費や家賃、光熱費その他の雑費が引かれ、純粋に自分のために使うことが出来るお小遣いは微々たるもの。

 この中には食費や生活用品の金も含まれている。以前はちょっとした贅沢をするにも清水の舞台から飛び降りる気分にならないといけない金額に、溜め息の一つも出た。

 今はカブに乗るようになり、ガソリンや各種パーツで出て行く金は確実に増えたのに、前より溜め息の数が減った気がする。

 ペットとか扶養家族を持つというのはこういう気分なんだろうか?そう思いながら信金を出た小熊は、表に停めてあったカブのシートを撫でた。

 金食いの同居人だけど、割高な近所のスーパーじゃなく遠方のショッピングセンターまで買い物に行けるようになったことで、食費を減らすことには貢献してくれている。

 小熊はもう一度通帳を見た。

 各種の引き落としの中には、修学旅行の積立金という項目がある。

 必要な金だけど、カブのガソリンを2~3回満タンにしてオイルの一缶も買えるくらいの金が毎月の口座から逃げ去っていくのは少々憎らしい。

 

 二学期の半ば過ぎ。南アルプスの麓に吹く風が涼しさを帯びてくる頃。小熊から月々の旅行費を毟り取る元凶である、修学旅行の日が近づいてきた。

 今年の行き先は鎌倉。隣県とは近場で済ませるものだと思ったが、小熊の通っている公立高校の創立者が甲斐武田家の家臣だったという歴史的経緯もあるらしい。

 小熊はそんな歴史や鎌倉の名刹には興味無かったが、周りのクラスメイトが盛り上がっているのに当てられたのか、修学旅行そのものについては楽しみに思えるようになってきた。 

 小熊には昼の自由行動で一緒に鎌倉を回る友達なんて居ないけど、たぶん礼子にはどっかに連れていかれる事になるんだろう。

 昨日も礼子は江ノ電の記事が書かれた雑誌を持って小熊のところまでやってきて、乗りに行こうと一方的に約束してきた。

 それより小熊には、夜の旅館泊のほうが魅力的だった。

 移動距離でケチった分、宿は修学旅行にしては結構高級なところに泊まるらしい。一人暮らしで自炊の日々を過ごしている小熊にとって、修学旅行のしおりに添付されていた旅館パンフレットに載っていた、普段の粗食ではお目にかかれぬ高座豚ハムや三崎の魚料理、鎌倉スイーツは生ツバが出る物だった。

 上げ膳据え膳の食事に檜の香る風呂、青い畳にフカフカの布団。そんな贅沢が出来るなら月々の積立金も無駄では無かったと思えるもの。


 何だかんだで修学旅行を楽しみにしていた小熊は、旅行当日、非常に腹立たしい午前を迎えていた。

 旅行日の朝になって、小熊はいきなり高熱が出て寝込んでしまった。風邪というものをめったにひかない体質だけど、残暑短くいきなり秋になった今年の気候が良くなかったのか、それとも小熊はガラにもなく旅行前日に興奮などしていたのか。

 どっちにせよ病気ということなら仕方ない。ただの風邪で寝てれば直りそうだというのは不幸中の幸い。携帯で学校に病欠の連絡を入れた小熊は、アパートの部屋で布団を被って寝込んだ。

 小熊が本当に腹立ったのは、クラスの皆が修学旅行に旅立った頃の時間。発熱がひどいようなら病院にでも行こうかと思い布団から起き上がってみたところ、いつのまにか熱は下がっていて、体調が極めて良好だということ。

 朝の発熱は一時的なものだったらしく、今はどこにでも出かけられそうな気分、しかし何もかももう遅い。小熊が楽しみにしていた旅館の豪華な食事は、小熊の手をすりぬけて遠くに行ってしまった。

 

 何とも不快な気分のまま、小熊は部屋の中を歩き回る。  

 思いがけず修学旅行の間、二泊三日の休日に恵まれてしまった。しかも病欠のように皆勤に穴を開けずに済む、それでも気に入らない。

 月々支払った旅行積立金も、当日キャンセルとあれば一銭も戻ってこないだろう。せいぜい先生やクラスの皆から、同情の言葉と共にお土産の饅頭など渡されるのがいいとこ。 郵便物の確認がてら外の空気を吸おうと、パジャマの上にジャージを羽織ってドアを開けた小熊は、嫌になるくらい好天に恵まれた秋の空を眺め、苛立ちまぎれに小石を蹴った。

 飛んでって転がった石ころは、駐輪場に停めてある小熊のカブのマフラーに当たり、澄んだ音を発てた。

 その音を聞いた小熊は、郵便の確認そっちのけで部屋に駆け戻り、着ていた物をすべて脱ぎ捨てた。

 裸になった小熊は、部屋の玄関脇に置いてあったゴーグル付ヘルメットとグローブを手に取る。

 決めた。これから鎌倉まで行く。今まで修学旅行の積立金を引き落とされてきた。旅館の飯くらい食いに行ったって文句を言われる筋合いのものではない。行きたいから行く。私にはそれを叶えてくれるカブがある。

 小熊はたった一人の修学旅行に行くべく、今まで経験の無い鎌倉までの長距離走行に着ていく服を選び始めた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る