第56話 越境
山中に入ってすぐに気付いたのは、空気の違いだった。
国道一三八号線で御殿場を通過し、箱根の山岳地帯に入って間もなく県境を越えた小熊は、今まで走って馴染んだ地元の山との違いを肌で感じた。
同じ気温や湿度でも、南アルプスの山は空気が硬質で冷たく、箱根は柔らかく生温い感じがする。
海から近いからだろうか?と小熊は思った。南アルプスとほんの数十kmの違いなのに空気が変わるのは不思議な気持ち。
今まで何度か電車で他県に行ったことはあったけど、空気の違いに気付いたのは初めてだった。天候で安全や快適性が大きく変わる原付バイク、イヤでも天候、気候には敏感になる。
まだ行った事のない他の山はどんなだろうか?と考えた。このカブで行けるのか、きっと行けるに違いない。主に財布の問題で、積極的に日本のあちこちに行こうという気持ちにはまだなれないが、この旅が終わったらその気持ちもほんの少しだけ変わるかもしれない。
道は舗装も良く、勾配もカブの登坂能力で無理の無い程度。不必要に煽ってくるトラックも居ない、カーブの曲率もカブを少し傾ける程度で対応できる物で、快適とも言える走行環境だった。
後は原付を叩けば金が沸く打ち出の小槌みたいに考えてると聞く神奈川の警察に気をつけていればいい。小熊は制限速度+10km少々の速度でワインディングの走行を楽しんだ。
途中で真っ赤な大型バイクの一団が続けざまに小熊を抜いていく。着ている物さえDUCATIと書かれたお揃いの赤いジャケット。
以前礼子に箱根はバイクのオーナーズクラブにとって聖地みたいな場所で、ツーリングイベント等が盛んに行われていると聞いたことがある。
小熊はカブみたいな仕事道具のバイクにもオーナークラブなんてものはあるんだろうか?もしそんなものがあったら自分は入るのか?と考えたが、自分が他のカブと一緒にお揃いの服を着て走っている様を想像し、やめとこうと思った。
それまで走ってきた国道の名前が変わるという形で、小熊は国道一号線に入った。
この辺にはかつて箱根の関所があるという。関所跡の観光看板は出てたが、逆方向なので今回は素通りする。
かつての日本では藩を越えて移動するのは命がけだったというが、きっと彼らもスーパーカブを買っていれば県越えなんて朝飯前だろう。そう思った途端に腹が鳴ってきた。空腹を満たすのは鎌倉に着くまでお預け。
周囲には温泉旅館が林立している。いずれカブで出かけてもこういう旅館に気軽に泊まり、美食と温泉を楽しむくらいの金を稼ぎたいところだけど、今は泊まれるかどうかもわからない修学旅行の旅館に向かう身。豪奢な旅館を横目で見ながらカブで走る。
小熊は前方を走る黒塗りのトヨタ大型車に追いついた。
普段は流れの速い郊外の国道で他車から煽られたり抜かれたりするカブだけど、前の黒塗り車は小熊の巡航速度より少し遅いスピードで温泉街を流している。
苛立ってもしょうがないので車間距離を保ちつつ、暇つぶしに前方の車を観察した。
黒塗り車は何かを探しているような感じで、温泉旅館の前を通るたび減速をする不安定な運転をしている。後部座席には白髪の男性が一人。
東京の実業家か政治家が静養に来たんだろうか?と思った。そういう重要人物が泊まる旅館は利用者のプライバシーのためにネット地図やカーナビには場所を掲載していないと聞いたことがある。
探し物が見つかったらしき黒塗り車は、少し急な停止をして、それから左折のウインカーを点けて山中に向かう小路へと曲がって行った。
後ろの小熊も、カブのそれほど大きくないブレーキで急減速をさせられる。思わず山道を走り去る黒塗り車に拳を突き出した。
やっぱり腹が減った状態でカブに乗るのは良くないと思った。些細なことで気が立ってくる。
高価なトヨタに乗って豪華な旅館に向かう壮年の男。きっと財布の中身は小熊の何百倍も分厚いんだろう。
でも、わたしのほうがずっと優秀な機械に乗っている。
強がりのような負け惜しみのような事を考えつつ、小熊のカブは箱根登山鉄道沿いに国道を走り、山岳地帯を抜けて海に達した。
あとは海を見ながら東へと走れば、鎌倉に到着する。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます