第30話 夏休み
小熊は通っている北杜市の高校から甲府の提携校まで、片道20kmの距離をカブで走り、共同で行っている職員研修の書類を届けるバイトを始めた。
初日は今まで数回しか行ったことのないカブでの遠出や、他校職員との応対。何より初めてのアルバイト経験に緊張したが、何度も往復を重ねているうちに体が慣れてきた。
毎朝小熊に書類を渡す教務課の老教師も、書類を受け取る甲府の若い女教師も、小熊が不必要なお喋りを嫌うことをわかってきたようで、これから幹線道路をバイクで走る小熊に無用の緊張や心労を負わせぬよう、書類の受け渡し以外の会話をあまりしなくなった。
小熊は、幼少期に東京都下で暮らしてた頃に時々見かけたバイク便というのは、このような物なんだろうか?と思った
人と応対する仕事ながら、愛想や世間話を求められるスーパーの店員や訪問販売員とは違ったマナーの存在する仕事。
無愛想な自分でも文句を言われない仕事というのもこの世に存在するなら、接客業というのも悪くないと思った。
自分にも出来そうな仕事がある。それだけで学生ながら社会の一端に加わった気分。
小熊はカブの後部キャリアに固定されている、銀行員が使ってるような黒いスチールボックスに触れた。
今の小熊にとっては学校の書類を入れる箱。バイク便の荷物箱に似ていなくもない。
学校が試験休み期間から本格的な夏休みに入ったことで、生徒の補習等も終わり教員研修が本格的に始まる。
小熊の仕事は朝夕の一日二往復になった。
学校業務手伝いの謝礼として支払われる一往復二千円の日給は、貰うたび律儀に学校近くの信金に入金している。
奨学金が振り込まれ、学費その他の生活費が引き落とされる口座は、カブとその周辺費用への出費でほぼ空っぽになったこともあったが、今は着々とその数字を増やしている。
二往復で四千円の日給を三千円入金して千円を財布に入れる。
給油は二日に一回。カブは満タンで甲府まで5往復できることがわかったので、余裕を見越して4往復でガソリンを入れ、残りは生活費その他の出費に使う。
夏休みのバイトを始めてから、食費は少し安くなった。
それまでインスタントとレトルトに依存していた小熊は、簡単な料理を自分で作るようになった。
料理は苦手というわけでは無かったが、余分にかかる時間と手間を考え、自炊というものの必要性を認めていなかった小熊は、自分で食材を選び自分で料理するということを少しずつやるようになった。
半分寝ててもいい学校の授業と違い、カブを走らせるバイトで集中力が落ちることは事故に繋がるため、しっかり食べないといけないという実利的な目的もあったが、小熊の意識そのものが変わってきたという部分もあった。
それまで自転車か公共の交通機関頼りだった外出をカブで行うようになった。
奨学金頼みだった諸々の出費の一端を自分で働いて稼ぐようになった。
誰かじゃなく、何かじゃなく、自分の意志と責任で物事を実行する。だから自分の食べる物くらいは自分で作る。
学期中と変わらぬ時間に学校に行き、同じコースを毎日走り続けるバイトの日々。
変化も波乱万丈も無い繰り返しは小熊を少しずつ成長させていた。
カブは納車して100kmが経過した時に一度オイルを交換した。
中古バイク屋の店長に、次のオイル交換は500km走った後だと言われ、それがいつになるのか想像もつかなかったが、二度目のオイル交換時期はバイトを続ける中であっさりとやってきた。
前回は飛び込みで、次も特に予約はいらないと言われたが、念のために電話を入れ、バイトが終わった後で中古バイク屋に行った。
山梨北部には珍しい猛暑の中、前回と変わらず店先で整備をしていた禿頭の店長は、軽く頭を下げる挨拶をする小熊よりもカブを見て目元を緩め、それまでしていた作業を中断してオイル交換と各部の点検を始めた。
車体を店内の作業場に入れてセンタースタンドをかけ、オイル注入キャップを外してからエンジン下部のボルトを緩め、受け皿を置いてボルトを素早く抜き、オイルを抜き出す。
オイルが出てくるまでの間、車体の目視点検をした後、キックレバーを動かしたり車体を揺らしたりして残ったオイルを抜き、新しいワッシャーを付けたボルトを締め、オイルを注ぎ入れる。
ある程度まで入れたところで一度キャップを締めてエンジンをかけ、何度か吹かした後にエンジンを切ってキャップを外し、キャップについたレベルゲージでオイル量を確認する。
小熊は前回のオイル交換では何となく眺める積もりだったオイル交換の作業をじっくりと見た。
店主はタイヤやブレーキ、チェーン等を点検した後、カブから抜き取ったオイルを眺めながら言う。
「丁寧に乗ってる。丁寧すぎるくらい」
丁寧すぎるとは何だろう?よく意味がわからないが、それはこれからカブで走ることで自分自身で知っていくことだと思った。
オイル交換費用の500円を払う。これも入れるオイルの値段より高いが、プロにオイル交換を頼む費用としては破格の値段だということを、礼子とのお喋りで知っている。
小熊は礼を言って中古バイク屋を出た。
まっすぐ家に帰らず、韮崎のホームセンターまで行ってホンダG1のオイル缶とレンチ、オイル処理箱を買う。
中古バイク屋の店主は言っていた。次からオイル交換は1000kmごとに。自分でオイル交換を出来るようになったほうが望ましいと。
だから小熊は今日の作業を注視し、まだ次のオイル交換には早いけど必要な物を買い揃えておくことにした。
これは小熊のカブだから、オイル交換くらいは自分でやる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます