第31話 敵
カブを日常の足として、夏休みバイトの仕事道具として使いこなすようになってきた小熊は、今さらになってバイク乗り最大の敵と遭遇してしまった。
タイミングは書類を送り届ける仕事の真っ最中。一日二度の往復のうちの夕方便の往路。
晴天と曇天の中間くらいの夏空は不吉な雲に覆われ、敵は容赦の無い攻撃を開始した。
突然の降雨。
小熊は逃げようにも逃げられない雨雲から逃れるようにカブを飛ばし、送り先である甲府の高校に駆け込んだが、ジャージもヘルメットもしっとりと濡れてしまった。
幸い届け物の書類は後部のスチール製ボックスの中で無事。小熊は雨に濡れる時間を少しでも早く終わらせるべく、小走りに書類の受取人である若い女教師の居る職員室に向かった。
夏休みの職員室に一人で居た教師は小熊の姿を見て驚いた様子で、教卓の引き出しから取り出したタオルを渡す。
小熊はタオルを受け取り、濡れたジャージを気休め程度に拭きながら、カブを停めた駐輪場から職員室まで自らの体で守った書類袋を渡す。
礼を言ってタオルを返し、今日は返送便の書類が無いことを確認した小熊は、雨足の強くなる外の風景を窓越しに見てうんざりしながらも席を立とうとしたが、教師は小熊を引きとめた。
「どうせ夕立だから止むまで待ってたほうがいいわよ」
勧めに応じて座り直した小熊に、教師はお茶を淹れてくれた。
体育系の部活で顧問をしてそうな感じの女教師。実際にそうしてるのかどうかは、互いに立ち入った話をしたことが無いので知らない。
小熊自身がお喋りや世間話が苦手だということもあって、それを気遣ってるのか女教師も特に何も言わず、届いた書類の確認に集中している。
小熊は熱いお茶を口に運びながら、相変わらずこの人は文字がたくさん書かれた紙は苦手みたいだ、と思った。
雨の職員室。互いに何も言わないまま流れる時間。何とも居心地が悪く、来客用の薄い煎茶が不味い。
職員室のお茶というのはいつ飲んでもひどい味がする。たぶん環境のせいだと思った。以前に飲んだのは母親の失踪に伴って必要になった奨学金給付手続きの時。
女教師の言う通り雨がほどなく止み、バイクに乗る人間を安堵させる日の光が差してきたので、小熊はお茶のお礼を言って席を立つ。去り際に聞いてみた。
「何か、部活の顧問をしてるんですか?」
「そういえばまだ言ってなかったっけ?登山部よ」
特にそれ以上会話が弾むことも無く、小熊は職員室を辞する。自分が何であんなことを聞いたのかわからなかった。
お茶一杯分くらいは愛想を振りまいてみようと思ったのか、それとも、今まで他人に興味を抱かなかった小熊が、その基本は変わらないながら、この夕立のように何らかの例外が発生したのか。
小熊の考え事は甲府から北杜までカブを走らせる帰路であっさり中断された。一度降り止んで青空さえ覗かせた空が再び曇り、今度は雷まで交えた大降りになった。
返送の書類が無いということで、下着までビショ濡れになりながらアパートに直帰した小熊は、濡れた服を放り出して風呂に入りながら、雨という難物について考えた。
どこにでも行けると思っていたカブも、雨が降ればそうもいかない。視界は悪くなりタイヤは滑り、何より体が濡れる。そんな状態で長く走れば風邪でも引くだろう。
小熊がカブを買ったのが梅雨明け後の初夏だったこともあり、今まではバイク乗りの仇敵とも言える雨との遭遇を避けることが出来たが、これからはそうもいかないだろうと思った。
翌日以降、小熊は二日続けて雨に降られた。
最初の夕立以来、自転車に乗っていた時に使ってたビニールの雨合羽をカブの後部ボックスに入れるようにしたが、ボタンだけの前合わせから雨は容赦なく入りこみ、体にも合ってないらしくあちこちが風でバタつく。
これじゃ着ないほうがマシだとも思ったが、どうやらそうも言っていられない。仕事先である職員室に雨粒を滴らせながら入るわけにもいかない。
小熊は雨の上がったバイト帰りにホームセンターに寄り、レインウェアというものを探したが、どうもこれといった物が見つからない。
これはバイクに乗ると引っかかりそう、これは自転車用と同じただのビニールで蒸れそう、これは色が気に入らない。
結局、甲府までの往復で行動範囲となった山梨中央市の大手中古バイク用品店アップガレージまで行き、少し奮発して未使用中古として出ていたバイク専用品を買った。
黄色というのは派手かな、と思ったが、これも視界不良な悪天候時には必要な安全装備。それも言い訳で実際は見た途端欲しくなった。
新しいレインウェアをカブのボックスに入れてバイトに行く。甲府までの道中、またしても雨雲が広がり始める。以前までならあの雲のように陰鬱な気分になってたところだけど、今日の小熊はニヤリと笑い出したくなる。
さっそく道路脇のコンビニにカブを停め、軒先でレインウェアを着て走り出す。ゴアテックス系素材のウェアは雨粒を通さず、蒸れることも無い。
ジェットヘルメットでむき出しの口元もレインウェアの高い襟でほどよく隠すことが出来て、バイク専用品だけあってスピードを上げても、体の動きを阻害されることは無い。
目に当たる雨粒も先月買った山本光学器のゴーグルが防ぎ、日頃レンズをこまめに磨いてることもあって曇りも無い。
甲府の高校に着いた小熊は、職員室通用口の軒下でレインウェアを軽く振った。雨粒の玉が綺麗に転がり落ち、ウェアは乾いてる時とほぼ同じ状態になる。
黄色いレインウェアを着た小熊はドアを開けて校内に入る前に、外を振り返ってまだ降り続ける雨に向かって言った。
「ざまーみろ!」
新しいレインウェアを買って以来、雨も雨雲も嫌いじゃなくなった。
夕立の後の道をカブで走ると、いい匂いがすることを知ったからかもしれない。
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