第29話 甲府

 北杜から甲府までの道中は思ったより快適だった。

 初めての仕事での走行で緊張もあったが、信号の少ない甲州街道の流れに合わせて走っていると、いつのまにか距離計が進む。

 小熊は実際に自分が走ることになる経路を走ってからこの仕事を請けたが、その時に走った早朝で車の流れの速い往路や通勤の混雑が始まった復路より、午前中の今は道路状況が良好だ。

 トラックや営業車の多い車の流れは、小熊のカブの実質的な巡航速度である55kmくらい。前の車についていけば後ろの車から煽られることも、遅さにストレスを感じることも無い。

 つい数日前はこんな遠くまで来た、と思っていた韮崎市街を通過し、目的地である甲府に近づいていく。 

 途中で県道17号に枝分かれした小熊は、山梨の県庁所在地である甲府市街を走る。

 地元では見られない大きなデパートや繁華街のある地方都市を、ジャージにカブの自分には場違いな気分で眺めながら目的の県立高校に到着した。

 原付を停める場所に少し迷ったが、ここには仕事で来ているという意識を発揮して。来訪者駐車場の隅にカブを停めた。

 カシオのデジタル腕時計を見る。荷物を受け取った学校からここまで50分弱。

 仕事で走るのは初めての道ということで慎重に走ったけど、何度か走ったらもう少し時間を縮められるだろうと思った。

 カブのエンジンを切ってヘルメットを脱ぎ、スチール製リアボックスの鍵を開けて中身の書類袋を取り出した小熊は、ここは他校生徒で部外者であることを思い出し、念のために校舎の正門に回った。守衛に職員共同研修の書類を届けに着たことを伝える。


 夏休み中の大学付属校で暇そうな守衛のお爺さんは、来訪者名簿を取り出すこともせず、次からは職員室の通用口から直に入っていいよ、と言う。小熊は一礼して、言われた通り職員室に向かった。

 職員室に居た共同研修の担当教師は、まだ若い女性教師だった。

 日焼けした顔に短い髪。ジーンズにTシャツ。体育系部活の顧問をやってそうな教師。

 小熊が職員室をノックすると大きな声で「どうぞー!」と言うので、戸を開けて一礼して入り、守衛のお爺さんとのやりとりを繰り返すような感じで、肩にかけていた書類袋を下ろしながら研修書類を届けに来たことを伝える。

 正直、カブで走ることよりも、知らない学校に行って知らない教師と話すことのほうが小熊を緊張させるものだったが、守衛のお爺さんとのやりとりがいい予行演習になったみたいで、思ったよりスムーズに仕事が進む。馬鹿丁寧な手順も無駄にならないな、と思った。

 女教師は書類袋を受け取り「ご苦労さん!」と快活に笑う。これで仕事は終わりと帰ろうとする小熊に言った。

「書類を確認するまでは居て」

 小熊は自分が無責任な仕事をしてしまったような気分になって、慌てて踵を返す。


 鼻歌交じりに袋を開け、中身の書類を取り出した女教師は、大雑把に机の上に置きながら言う。

「今年も学生のバイトさんが届けに来たのね」

 小熊は「はい」とだけ言って俯く。今までバイトというものを何となく避けていた理由の一つ、世間話とかいうものをしなくてはいけないんだろうかと思った。

 文字が多く書かれた物が苦手そうな女教師は、書類を一枚一枚眺めながら一方的に喋り続ける。彼女の話によれば、去年のバイト学生は毎日自転車で届けに来たらしい。

 サイクルウェアにメッセンジャーバッグだけど、乗ってるのはホームセンターで売ってるような五段変速のママチャリ。ロードレーサーが欲しくて毎日片道20kmを二往復するバイトを始め、夏休みの終わりに念願のARAYAのエントリーモデルを買ったらしい。

 誰も居ない職員室で話相手に飢えてたのか、女教師は喋り続ける。その前の年のバイト学生は車で来ていたらしい。

 学生の身で分不相応に車を買ってしまい、その維持費を捻出するため車を使うバイトを始めたが、バイトである程度まとまった金が溜まったあたりで車そのもののエンジンを壊してしまい、結局廃車にしてしまったとか。


 小熊が相槌を打つだけの応対をしている間に、書類の確認を終えた女教師は、椅子から立ち上がる。

「確かに受け取りました。今お茶淹れるから一休みしていったら?」 

 小熊は「これから学校に戻らなくちゃいけないので」と言って遠慮した

「あら残念ね、じゃ、帰りは気をつけてね」

 小熊はもう一度頭を下げ、空の書類を下げて職員室を出る。

 通用口から外に出て、駐輪場でカブのエンジンをかけたところで、声がした。

「待って待って待って~!これ忘れてたわ~!」

 さっきの女教師が大きな声を上げながら走って追いかけてくる。手には書類が入った何枚かのクリアファイルを持っていた。

 そこで小熊も気付いた。自分の学校から書類を届けるだけでなく、返送便を受け取って持ち帰るのも仕事だということを。

 女教師はついうっかりしていた、としきりに詫びていたが、忘れていたのはこっち。自信を失いそうになる。

 返送の書類が入った書類袋をカブの後部ボックスに入れた小熊は、甲府の学校を出て帰路についた。帰り道も往路とあまり変わらぬ車の流れ。

 特に緊張や気負いを覚えることなく走れるだけに、さっきの失敗が心に残った。

 

 北杜市の学校に戻り、教務課の老教師に書類袋を渡す。 

 老教師は中身の確認をしながら言った。

「夏休み本番に入ったら一日二往復だけど、今日はこれでおしまい、また明日ね。あとこれ」

 小熊に封筒が渡される。今日の仕事の日給。教えられた通り中身の二千円を確認し、出金伝票を書いて渡す。

 はじめて労働で得たお金を手にした小熊は、今日何度目かの深いお辞儀をして職員室を後にする。

 二千円だけど懐が暖かい。駐輪場に行った小熊はまだエンジンの熱いカブに触れる。

 小熊を一度ほぼ一文無しにして、今は稼ぎをもたらしてくれる存在を、自分にとって大切な存在であると確認するようにポンポンと叩き、カブに跨って自宅まで帰った。

 はじめての給料。ちょっと贅沢な物でも食べようか、それとも明日からの仕事に必要な物でも買い足すかと思った小熊は、結局そのまままっすぐ自宅アパートまで帰った。

 まだ午前中と昼の中間くらいの時間。バイト一日目を失敗気味ながらも無事に終えた感慨より疲労のほうが濃く、早めの昼ご飯を盛り蕎麦だけで終えた小熊は、そのまま夕方まで昼寝した。 

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