第28話 バイト初日

 試験休み一日目。

 事実上の夏休みが始まる日。小熊は普段学校に行く朝より早起きした。

 今日から小熊の夏休みバイトが始まる。高二で初めて経験する仕事は学校業務の手伝い。

 夕べは仕事着となる学校ジャージを着たまま眠ったが、小熊は一度ジャージと下着を脱ぎ捨て、冷たいシャワーを浴びた。

 身奇麗にするためというより、皮膚と全身に刺激を与えて緊張による強張りを体から取り去るため。

 裸のまま今日持っていく物をもう一度点検した小熊は、新しい下着を身につけ、体育シャツとジャージを着た。

 牛乳をたっぷり入れたインスタントコーヒーと焼かない食パン、丸ごとのトマトの朝食を用意する。

 まだ自分が緊張していると思った小熊は部屋にあるラジオを点けた。

 NHK-FMのままめったにダイヤルを動かさないラジオから流れてきたのは、グレン・フライの曲。Smuggler's Blues(運び屋のブルース)

 バターとジャムを塗ったパンとコーヒーを交互に口に運びながら、人並みよりちょっといい成績の英語力で歌詞を聴いたところ、どうやら自分と同じような稼業の人間について唄ったものらしい。

 運び屋の悲哀を唄ったナンバーを聞きながら塩をつけたトマトを齧る。これから始めるのは、幹線道路をカブで走り書類を運ぶ仕事。

 せいぜい自分はこのトマトみたいにならないようにしよう、と思いながら朝食を終えた。


 着るものは着たので、持って行く物を揃える。とはいっても特に必要な物なんて聞いてない。一応いつも学校やカブでのお出かけに持っていってる免許入りの財布、携帯電話、鍵、あとはボールペンくらい。

 携帯のアドレス帳にはもしもの時のために、と連絡先を教えてくれた礼子の連絡先が入ってるけど、休みが始まったらハスラー50で走りに行くと言っていた礼子は、もうこの辺には居ないだろう。

 半ば社交辞令のような感じで、どこに行くのか聞いたら、礼子は「近くて遠い場所」とだけしか言わなかった。

 ジャージのポケットに入れるには嵩張り、落っことしやすい財布や携帯をどこに入れるか迷ったが、部屋にあった黒一色の地味なウエストポーチに詰めてたすき掛けにする。

 昨日買ったカシオF-91Wのデジタル腕時計を着け、ヘルメットとグローブを手に取った小熊は、まだ新しいケッズの布バスケットシューズを履いて玄関ドアのノブに手をかけた。

 そこまで来て自分の姿が気になった小熊は、一度紐を結んだバッシュを脱いで部屋に戻り、浴室の鏡で自分の姿を確認した。

 代わり映えしない顔とおかっぱの黒髪、紺一色のジャージに斜めに掛けたウエストポーチ。

 地味で目立たない姿を改めて見た小熊は、失望より安心を味わったが、もし自分が将来、就職などすることになったら洗面所の小さな鏡だけでなく、玄関前に姿見があったほうがいいと思った。

 見た目を綺麗に取り繕うためではなく、見苦しい格好をしていないという確認のために。


 カブのエンジンをかけた小熊はいつも通り、意識していつもと変わらないスピードと走り方で通学路を走り、学校に到着した。

 今までは特に用が無い限り縁遠かった職員室内の教務課に行く。いつも行く店の裏側、客には入れない従業員以外立ち入り禁止の場所に入ったような気分。

 もう来ていた教務課担当の教師に挨拶すると、定年間近の老教師は前置き抜きで机の上に出していた布製の袋を小熊に渡す。

 厚手の布で作られた暗緑色の巾着袋。隅に一澤帆布というタグが縫い付けてあり、中央には学校関係書類と染め抜かれている。

 「これを渡すんですね?」

 普段なら一時間目が始まる時間ながら、休日出勤ということでまだ目が半分寝てる老教師。あまりにもやりとりがあっさりしているので一応確認した。

 「時間の制限はありますか?」

 「午前中に戻ってくるならいいよ」

 老教師の単純な指示と軽い書類袋に拍子抜けした小熊は、一礼して職員室を辞去する。さっきまでの緊張は少し解けたような気がする。

 礼子が言っていた外交クーリエが持つ行嚢のような袋をカブのスチール製荷物ボックスに仕舞い、鍵をかけた小熊は、カブに跨って走り出す。

 ここから甲府まで20km強。昨日実際に往復してみた感じでは片道40分くらい。

 小熊は朝のラジオで聞いた曲を鼻歌で歌いながら、甲州街道を東へと向かった。

 幾度緊張を和らげても今朝からずっと収まらない手の震えと、それを敏感に反映させて微かに揺れる前輪。

 不安定になりそうな小熊のカブを、運び屋のブルースがまっすぐ走らせてくれていた。

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