第43話 壁

 富士山八合目を過ぎ、いくら走っても本八合目は見えなかった。

 礼子はハスラーで高回転を維持しつつ、ブルドーザ登山道に挑んでいた。

 徒歩では険しいながら登れないことも無い坂が、バイクで走っていると実際よりも急角度に感じる。

 きっと標高の高さで酸素不足を起こしているからだろうと思った。

 ハスラーは高度を増すごとにトルクが痩せ、礼子自身も集中力や筋肉の動きが鈍ってくる。

 夢の中でバイクに乗った時のことを思い出した。夢の中のバイクはいつも、いくらスロットルを捻っても、鳥網か粘土で出来た壁に阻まれているかのように前へ進むことを拒否する。

 奥歯を噛み締めた礼子は、終わらない急坂を見た。これは壁。わたしを取り囲む壁だ。

 私はなんで壁に向かってバイクを走らせるような事をしているんだろう。


 礼子は東京で市議をしている父と、仕出し弁当屋の母の間に生まれた。

 一人っ子の礼子に自分の後を継がせることなど考えていない父にはいつも礼子に、自分の方向性を意識しろと言っていた。

 何をするにしても自分がどうなりたいか、どういう方向に進みたいかを考えていれば、自ずとやるべきことは決まってくるらしい。

 今でも弁当屋の店長として、弁当作りから配達まで何でもやっている母はといえばその逆で、人生何事も塞翁が馬。その時やりたいと思ったことをやればいいと言っていた。

 礼子はその言葉を守り、最近になってやっと答えらしき物に辿り着いた。自分を阻む壁を乗り越えたい。

 そのために礼子は、高校からは父母の居る東京都下の家ではなく、幼少期を過ごし、自分を取り囲む壁というものを初めて意識した山梨の別荘に暮らすことを望んだ。

 それから礼子はバイトして原付のオフロードバイクを買い、幼い頃は高くて手が届かなかった南アルプスや秩父、丹沢の山々をハスラーで走り始めた。


 車や登山者には入れない山中の防火用林道をハスラーで走った礼子は、遠目に見れば蒼い塊にしか見えなかった山の本当の姿を見た気になっていたが、そんな山道を走っていていつも目につくのは、日本で一番高い山。

 あの山をバイクで登ることが出来れば、私は自分の自由を奪う壁を乗り越えられると思った。

 十代の高校生という不自由な身分も、回りの壁がいつでも越えられる物だということがわかっていれば苦痛では無い。

 何となく思っていた富士登山を実行に移そうと決意させたのは、高校で会った小熊という同級生の存在。

 彼女はいつも自分にとって何が必要か、どうすればいいのかが見えている。だから自分の生活道具としてスーパーカブを選び、人生の楽しみさえ見つけ出している。

 バイクで富士山に登りたい。でもどうすればいいのかわからない。そう思った礼子は、小熊ならどうするか、と考えて行動した。

 どんな目的で行う、どういう行動であるかを明確に意識し、富士登山に適応した大排気量のオフロードバイクではなく、ハスラーをベースに、富士山を登ることが出来るバイクを作り上げた。

 借り物の足ではなく、自分の足で登っているという気持ちと共に登れるバイク。

 それでも見込みが少々甘かったらしく、125ccエンジンのハスラーは八合目以後の標高の高い急坂に悲鳴を上げていた。

 

 礼子は回転を落としそうになるハスラーを宥め、前方の道に意識を集中しながら走り続けた。

 酸素が足りない。燃料が足りない。パワーが足りない。

 もっと小熊と話せば良かったかな、と思った。そうすれば何が必要なのか見えていただろう。

 エンジンのシリンダーを加工してもっとサイズの大きいピストンを入れ、150ccにしていたほうが良かったのかもしれない。それより前後のサスペンションをもっと太いものにするべきだったのか。

 それよりも太く強くしなくてはならないのは自分自身。礼子は五合目を過ぎてからほとんどシートに尻を落としていない。立ちっぱなしの体があちこち痛くなる。自分の腕が、脚が、体が細い。

 ちょっと坂の多い観光地に過ぎない富士山さえ登れないのが今の自分の力。偽らざる姿。

 疲労でバイクから落ちそうになる体をもう一度引き締め、激しく揺れて手を引き剥がそうとするハンドルグリップをしっかりと掴んだ。

 今の自分に足りない物が見えたなら、それがどこまで及ぶのか確かめてみよう。

 上下動する車体が体を反らせ、バイクから引き剥がそうとする。山に体を立てると転がり落ちる。バイクの上に身を伏せた。山に齧りつくように身を添わせた。

 礼子の視界に道標が見えてきた。山小屋の横を走り抜け、更に登る。

 本八合目を通過したことに気付いたのは、しばらく走った後だった。

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