第42話 渇き

 礼子は八合目にハスラーを突っ込ませた。

 走らせながらも正直ここまで来られるとは思っていなかった。

 昨日も一昨日も手が届かなかった八合目をあっさり通過し、徒歩登山道を横切って更なる高みを目指す。

 その名の通り登山ルート全体の距離から見れば80%、しかし事前の下調べや、以前に徒歩で登った経験からいって、車体と自分自身の負担パーセンテージはまだ半分くらい。

 いやここから本八合目、八合五勺、九合目、そして頂上のお鉢に至る道が富士登山の本番で、今までのはほんの準備運動かもしれない。

 八合目から上のブルドーザ登山道が見える。遠くからの視界で広角に見れば、整地の行き届いた何てことの無い道。これが実際にバイクで走ると責め苦の連続。

 ダカールラリーの最難関ルートはこんな感じなんだろうと思った。二輪参加者の多くが走るのを諦めて押して歩く道。正直礼子もここに来るまでに何度もバイクを放り出して歩いて登ろうかと思った。

 

 礼子はハスラー50の車体に125ccのエンジンを載せた特製バイクのエンジンを吹かした。高高度による酸素濃度低下でのパワーダウンは予想通りだけど、想定の範囲。

 前後のサスペンションも問題なく稼動し、載せ換え前に細部まで点検したフレームも、エンジンパワーで捩れるけどこれくらいなら問題ない。電装も燃料も大丈夫、残るは車体に搭載されたソフトウェア、つまり自分自身。

 高山の低酸素で集中力が途切れてくる。

 自動車やバイクのレースの世界における最大のタブーがコカイン問題で、現在もなお多くの選手の間で蔓延していて、興行さえ危うくなるので取り締まりも出来ないというのがよくわかる。

 礼子も今だけはアンデスの高地民族が噛んでいるコカの葉が欲しいと思った。とりあえず富士山にはそんな物が買える便利なドラッグストアは無いようなので自前の集中力で乗り切ることにした。

 

 八合目を過ぎたブルドーザ登山道は、路面状態が変わらないまま傾斜がきつくなる。駆け登るというより、石ころに囚われたタイヤをエンジンパワーで引っ張り剥がすようにして走るしか無い。

 荷重移動をミスして前輪が宙に浮く。ダメか、転ぶ、と思った礼子は、自分でも何て言ったのかわからない叫び声を上げてハンドルの上に覆いかぶさり、暴れる前輪を力でねじ伏せるようして押さえる。

 五合目の売店を営み、毎日履帯車両で富士山を登る店主がくれた助言。山に体を立てるな、体を沿わせろという言葉の意味がわかる。あれは力を抜いて山に身を委ねろという意味じゃない。この山から落っこちないようにしるには、全力で身を伏せるしか無い。

 八合目まで登ってきた体感でもうすぐだと思っていた本八合目がいつまでも見えない。バイクも脳味噌も、筋肉も酸素が足りない。気圧の低い乾いた空気が体から水分を奪っていく。

 水が欲しい。一口でいい。北杜の我が家に居れば蛇口から出てくる南アルプスの水を飲みたい。

 朦朧とした意識の中で、礼子は自分が何でこんなことをしようと思ったのかを考え始めた。

 

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