第8話 説明書

 小熊は初めての原付通学で、礼子というクラスメイトと知り合うこととなった。

 成績優秀で美形のお嬢さま、地味で目立たない小熊とは正反対の存在、彼女と小熊の共通点は原付に乗っているということぐらいだった。

 小熊のスーパーカブと礼子のスズキ・ハスラー50

 学校帰りの駐輪場、礼子はクラスメイトが抱いている普段の冷然とした雰囲気を忘れさせるようなハイテンションで一方的に喋り、そして話し終わるとハスラーに乗って帰って行った。

 小熊にはあまり縁のなかった他人とのお喋り、自分自身で遠ざけていたものを一方的に運んできたのも、このカブなんだろうか?小熊はそう思いながらカブに乗り、家に帰った。

 最初は緊張していた家から学校までの走行も、考え事をしながらだったせいか特に何の気負いもなく出来るようになった。

 カブの60kmまであるスピードメーターは、まだ半分強の位置までしか動かない。


 日野春駅近くの自宅に戻った小熊は、アパートの駐輪場に停めたカブのキーを抜き、フロントフォーク根元の鍵穴にキーを挿し込んでハンドルロックをかける。

 駐輪場から自分の部屋までのほんの数十m、小熊は今日の家庭科で作ったヘルメットバッグを取り出して、自分のヘルメットとグローブを入れた。

 サイズはピッタリらしい、紐で肩に引っ掛けて歩く、生成り色は少し地味かな、と思った。

 部屋に帰り、ヘルメットをバッグごとドア横に吊った小熊は、制服のまま部屋の床に寝転ぶ。

 今日は原付通学より人とのお喋りで疲れた気がする、明日もあの礼子というクラスメイトは話しかけてくるんだろうか。

 自分にとって負担でしか無い他人との会話、必要以上の会話を避けながらうまく応対できるかどうか、そう思った小熊は、ふと今日の学校で、礼子からカブのことを聞かれても何も答えられなかったことを思い出した。

 礼子という同級生はバイクに詳しいみたいだし、知識で張り合ってもしょうがないが、せめて自分に分かる範囲のことだけは知っておきたい。

 小熊は部屋を出て駐輪場に行き、十円玉を使ってカブのサイドカバーを開けた、中には保険や共済の書類と共にカブの使用説明書が入っている。

 部屋に戻った小熊は、夕飯までの時間を説明書を読みながら過ごした。


 結局、説明書の内容は半分ほどわかったが、残り半分は書いてることが良くわからなかった。

 エンジンのかけかた、ライトやホーンなどの装備品の使い方くらいはわかるが、チョークというものは用途がわからない。

 確かにそういうレバーがあった記憶はあるが、エンジンがかからない時には引いて、かかったら戻すと言われても、今まで何度か乗った経験上、キックしてエンジンがかからなかった事は無い。

 今はとりあえずわからない所は飛ばして読もうと思った小熊は、あてずっぽうに別のページを開いた。

 判断は正解だったらしく、出てきたのはさっぱりわからない回路図、さっさと飛ばして別のページを見る。

 こないだガス欠になった時に読んだ燃料コックの使い方と給油の方法、復習の積もりでもう一回読んだ。


 テレビの無い部屋でラジオを点け、夕食を買い置きの蕎麦で済ませてからも説明書を読み続けた。

 特に興味を惹かれたわけでも、明日以降のための義務感に駆られたわけでもないが、読み始めると止まらない。

 一息入れようとユニットバスに湯を張って風呂に入る。窓の無いプラスティックの風呂場でも、さっき読んだことや実際に走った経験が頭の中を駆け巡る。

 風呂上り、乾燥の速いおかっぱ頭をタオルで拭きながら布団を敷き、ラジオを切ってもう寝ようとした小熊は、もう一度説明書を手に取った。

 一度内容が理解できず読み飛ばしたページの中にも、もう一回よく読めばわかる箇所があるかもしれない。

 さっき読み飛ばしたチョークの使用方法も、わからないなりに熟読したら冬季、寒冷期と書かれていた。

 今は初夏だけど冬になったら必要になるのかな?と思いながら別のページを開く、書かれていたのはキャブレターの調整方法。

 気がつくと小熊は布団の上で、説明書を顔に乗せたまま眠りについていた。

 深い眠りの狭間で小熊は夢を見た、翌朝目覚めた時にはどんな夢かよく思い出せなかったが、小熊の背に翼が生え、望む場所まで飛んでいく夢だったような気がした。

 そういえばカブの白い風防にあるホンダのエンブレムは、広げた羽根のマークだった。

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