第22話 スピード
ヘルメットに防風ゴーグルを装着するようになってから、小熊の速度感覚は一変した。
それまで40km以上の速度を出すと、風や空気中に浮遊するゴミで吹きっ晒しの目が痛くなり、まともな視界など望めなかったが、ゴーグルを装着すると本当に停止状態と同じ状況で物を見ることが出来る。
シールドやマスク。ヘルメットの風対策に色々迷った小熊は、調べ物をしていた図書準備室で内装工事をしていた作業員の装着している防塵ゴーグルを見て閃き、売っている場所を聞いたその日にホームセンターまで買いに行った。
さっそ装着して走り出したホームセンターから家までの帰路。体感速度の違いに驚いた小熊は、自宅アパートのある県道へと曲がる交差点を直進し、甲州街道を西へと向かう。
今まで母の車で買い物に行った時に数えるほどしか通ったことの無い道。平日の昼下がりで前後に車は無い。小熊はこのカブを買って初めてアクセル・スロットルを全開にした。
カブのスピードが上がっていくのが、エンジン音と風切り音で感じられる。ゴーグルで守られた視界はクリアで、道もメーターもよく見える。
カブのスピードメーターは今までほとんど縁の無かった右半分。40km以降の領域まで針を進めていく。
50kmを超えたあたりで、小熊は速度に恐怖を覚え始めた。
今までは風という制限があったおかげでここまで飛ばすことは無かったが、現在の小熊はゴーグルを着けているおかげでスピードそのものを直視することが出来る。
小熊はスロットルを戻し、40前後での巡航に戻した。遅い。カブを降りて自分の足で走ってるんじゃないかという錯覚に囚われる。
市街地を離れて周囲が農地ばかりになった道はどこまでも続き、終わりが見えない。
小熊はもう一度スロットルを開けた。このスピードなら見えないものを見に行くことが出来る。
カブは50kmを超えても加速を続け、メーター目盛りの終わりである60kmに達しようとした。
前方に車を見かけて小熊は慌てて前後のブレーキをかけた。ロードサイドの店舗から出てきたばかりで低速走行している車に追突しそうになる。
なんとかぶつかるのを回避したと思ったら。冷や汗を意識する間もなく後方から別の車が近づいてきた。
いつもなら道の端に寄って追い抜かせていたところだけど、小熊はカブを加速させる。
さっき追突しそうになった前方の車が、国道の巡航速度で走っている。小熊はカブの速度を50km強に調整し、適度な車間距離を取りながらついていった。後方の車も車間を空けつつ小熊の後ろにつく。
国が決めた制限速度ではなく、走る車が自然に作る流れに合わせて走る小熊
このカブに乗って以来、初めて車道を走る者の一員として参加している意識と自覚を持った。
そのまましばらくカブで走っていた小熊の前方に、青い看板が現れる。
国道の行き先である諏訪、松本までの距離が表示された案内看板。
小熊はスピードメーターの下にある距離計をチラっと見る。納車してから今までの走行距離は50km弱。
このカブであの看板に書かれてる距離を走れば、どこか違う街まで行けるんだろうか?そう思った小熊は、カブは自転車とは違って、走れば走るだけガソリンを消費することを思い出した。
荷物箱の装着とヘルメットの防風対策は予想外の低予算で済んだけど、今までの蓄えをカブ購入で吐き出してしまったことで、今月の財布は少々厳しい。
小熊は前後の車が途切れたタイミングでカブをUターンさせ、アパートへの帰路についた。
今日覚えたこの感覚は別の経験で塗りつぶすことなく、大事に持って帰りたい。
お菓子だって甘さに舌が麻痺する前に袋の口を閉じ、少しずつ食べて何度も後味を楽しんだほうがいいに決まってる。
カブで50~60kmの速度を何の抵抗も無く出せるようになった小熊は、あっさり日野春駅近くのアパートに着く。
ラジオくらいしか娯楽をもたらすものの無い部屋だけど、きっと今夜の楽しみに困ることは無いだろう。
駐輪場からアパートの部屋までの数十mを歩く小熊は、想像の中でカブに乗って走っていた。
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