第52話 忘れ物

 小熊は修学旅行の旅荷物が詰まったスポーツバッグを、カブ後部のスチール製荷物ボックスに入れた。

 旅行カバンとしては小さめなバッグは、ボックスの中にぴったり収まる。

 偶然そんな大きさのカバンを選んだのか、それともこうなることを予測していたのか。おそらく単に修学旅行が終わったらカブで出かける用にも使うために、このサイズのバッグを選んだんだろう。

 荷物を積んだ小熊は、カブのエンジンをかけた。暖気の間にデニム上下の上に着たジャージのジッパーを閉じ、革ショートブーツの紐を結びなおし、ヘルメットの顎ストラップを締めた。

 前後のブレーキと灯火を確認し、タイヤの空気圧を指で押して点検し、軽くアクセルを回してエンジンの反応を探る。

 すべて問題無し。グローブを装着した小熊はカブに跨って、自宅アパートの駐輪場を出た。


 アパート前の道路に出る時、もう一度我が家を振り返った小熊は、前の道路に視線を戻し、自分の進行方向をしっかりと見て走り出す。

 道に出てすぐに小熊はカブのブレーキをかけ、ターンしてアパートの駐輪場に引き返した。

 カブを降りてアパートに戻り、鍵を開けて部屋に入る。バスで行く修学旅行には必要ないけど、カブで走る時に忘れてはいけない物を忘れてた。

 高校の家庭科の時間に自分で縫って作った生成り布の巾着袋に入った雨合羽。雨に降られた時、夏に少し無理して買ったこの高性能レインウェアが役に立つだろう。

 冷蔵庫からペットボトルのお茶も、百均の保冷ペットボトルケースに入れて持って行く。出先で買うと無駄な出費になる。

 これだけかな?と思って部屋を出ようとした小熊は、もう一つ部屋にある物を持っていった。

 ラジオ。


 部屋でFMを聞くのに使ってる、AM、FM、短波まで聴ける卓上ラジオ。

 テレビやPCが無く、携帯もウェブ非対応の小熊にとって唯一の情報ツール。

 玄関を出て鍵をかけた小熊は、エンジンをかけっ放しのカブに駆け寄り、レインウェアを後部ボックスに入れた。

 お茶のペットボトルが入ったペットボトルケースはカブの右膝のあたりのある、コンビニ袋を引っ掛けるフックでブラ下げた。

 それから小熊はヘルメットを一旦脱ぎ、ラジオのカナル式ヘッドホンを耳に挿してから、もう一度ヘルメットを被る。

 スピーカー付きで厚めの新書版小説ぐらいあるラジオ本体は、たすき掛けしたウエストポーチに詰め、スイッチを入れてチューニングをいつも聞いてるNHK-FMに合わせる。

 音楽を聴きながら走るのが何も聞かないより安全なわけは無いが、これから小熊は今まで経験の無い距離を走ることになる。

 疲労による集中力減退を防ぎ、消耗をマネジメントするためには、いつも聞いているラジオを聴きながら走るのが一番いい。

 安全対策は単純な足し算じゃなく、一つ引いて二つ足す場合もある事は夏のバイト経験で学んだ。

 ラジオから流れる知らないアーティストの知らない曲と共に、小熊は鎌倉までの長い道を走り出した。


 まず最初の行き先は自宅最寄りのガソリンスタンド。鎌倉までは概ね160~170km。寄り道や現地で走り回る分を含めれば、満タンのカブがほぼガソリンを使い切る距離。

 タンクに残ったガソリンはまだ余裕があるけど、小熊はすぐに給油しておこうと思った。

 自分がこの日、これくらいの時間に出発したことを、ガソリンスタンドのレシートに記録として残すために。

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