第35話 オイル交換

 小熊の夏休みも半ば近くを迎えていた。

 書類運びで甲府まで往復するバイトに勤しんだ結果、カブの走行距離は伸び、前回このカブを買った中古バイク屋でやってもらったオイル交換から1000kmを走った。

 中古バイク屋の店主からは、カブを長らく使いたいなら1000kmに一回オイル交換をすべきだと言われている。

 最初の慣らし期間はオイル交換と各部の点検をしてくれた店主は、次からは自分で交換できるようになったほうがいい、と商売っ気の無いことを言った。

 小熊もその通りだと思い、特に何もすることのない昼間の時間を使ってカブのオイル交換をすることにした。

 既に必要なオイルや廃油の処理箱、それから千円の工具セットを買っている。交換の手順は昨日の仕事が終わった後で学校図書室のPCを借り、ネットに幾つか上がってるサイトを見て予習した。

 カブは整備ノウハウの蓄積でも他のバイクや車を大きく上回っているらしく、カブ オイル交換のキーワードで検索したところ、どれを見ようか目移りするほどのサイトが表示される。

 その中でも初心者にわかりやそうそうなサイトを見つけ、必要な部分をプリントアウトした小熊は、翌日の昼に生まれて初めてやるカブのオイル交換に挑んだ。


 作業着替わりの学校ジャージを着た小熊は駐輪場でカブのエンジンをかけ、アパート敷地の中でも広く開いている場所までカブを転がしていく。それから部屋にあったダンボール箱を敷き、その上にカブを動かした。

 工具とオイル、その他の必要な物が揃ってることを確認した小熊は、ネットのオイル交換記に書いてあった通り、しばらくエンジンを回してオイルを温め、それからカブの横に這う。

 エンジンの下にはオイルを抜き取るドレンボルトがあった。隣には間違って外すと厄介だというカムテンショナーボルト。

 プリントアウトの写真と馬鹿丁寧に見比べ、ドレンボルトを確認した小熊は、エンジンを切って工具セットからメガネレンチを取り出す。

 途中で熱いマフラーに手を当てて痛い思いをしながら、幾つかのレンチをボルトに当てた小熊は、サイズに合うレンチを見つけ、ボルトに掛けて手で押した。

 力をかけてもボルトは動かない。小熊が高校生女子の平均程度の腕力しか無いという理由もあったが、エンジンの下というのは作業がしにくい。

 地面に頬が当たるほど頭を下げないとボルトは見えないし、エンジン本体やマフラーはまだ触ると火傷するほど熱い。

 何より小熊自身が初めてのカブの整備に緊張していた。普段やってる洗車や点検と違って、やりかたを間違えるとカブを壊すかもしれない、事故に遭うかもしれない作業。

 手でレンチを押して緩めようにも緩められないボルト。事前に充分な準備をしたオイル交換は一本のネジが外れず頓挫した。


 小熊はカブの横に半ば寝そべるような格好のまま考えた。誰かに相談しようか、同じ原付通学仲間の礼子の連絡先は貰ってる。それとも自分でオイル交換するのは諦め、また500円を払って中古バイク屋に頼むか。

 小熊は自分の中に弱気の虫が沸いてくるのを感じた。こんなので自分はカブに乗り続けることが出来るのか、不安定で不確かな奨学金頼みの暮らしを続けられるのか、自分がこの世の中で生きていけるのか。 

 ネガティブな考え事の元となった一本のボルトを睨む。このネジさえ何とかなれば。

 自分の腕では外れないボルト、それならば

 小熊はカブの横に寝っ転がったまま、もう一度レンチをボルトにしっかり噛ませ、手で持ったレンチに足をかけた。

 足裏のレンチを蹴り下ろす。ズルっとした感覚が小熊の足に伝わった。小熊が日々勝ち取り、生き残っていかなくてはいけない生活を脅かす敵が、屈服した感触。

 レンチは飛んでってチャリンと音をたてる。起き上がってレンチを拾った小熊はもう一度ボルトにかける。ボルトはあっさり緩んだ。

 ある程度までボルトを緩めた小熊は、オイル処理箱を下に置き、エンジン横のオイル注入口の蓋を開けてからボルトをで回し、抜き取る。

 熱いオイルが手にかかり、落としそうになったボルトをしっかり摘んで、無くさないように雑巾の上に置いた。


 以後の作業はオイル交換サイトを読みながらやったおかげで問題無く進む。難物だったボルトを次のオイル交換で簡単に緩むよう弱めに締めておこうと思ったが、次も蹴って緩めればいいと思い、ある程度力をこめて締める。

 ドレンボルトは緩く締めた結果起きるオイル漏れよりも、強く締めすぎたためにオイル穴を壊すほうが重大なトラブルになるとサイトに書いてあったので、走って緩まない程度の力を意識した。

 オイル交換を無事終了させた小熊は、カブを駐輪場に戻して工具を片付け、オイルで黒く汚れた手に石鹸をつけて洗った。

 丁寧に洗ったのに爪の横にオイルの黒ずみが残る。顔を近づけてよく見ないとわからない汚れだけど、女子の手としてこれはどうなのか。

 まぁいいや、これも自分でカブの整備をした勲章のようなもの。そう思った小熊は、急に近くのスーパーまで買い物に行く用を思い出し、仕事や通学以外でカブに乗る時に着ているデニム上下を手に取った。

 新しいオイルに入れ替えたカブ。オイル量の点検は駐輪場でエンジンを回してから見るだけでなく、実際に走らせてからもう一度チェックするのが望ましいらしい。

 バイトで走る途中で点検して何か異変が見つかったら仕事に支障が出るだろう。そしてもう一つの理由。

 小熊は、それまで待っていられない。

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