第3話 初走行

 親なし友達なし、ついでに趣味も無し。何もない奨学金暮らしの生活に一台の原付バイクを迎え入れた少女、小熊は、初めて乗るスーパーカブをおっかなびっくり走らせながら、何とか家に着いた。

 中央本線の日野春駅近くにあるアパート。高校進学と同時に母と二人で東京からこの地に移り住んだ時は、北杜市北部にある建売住宅に住んでいたが、奨学金生活をするためここに引っ越した。

 北杜市に幾つかある工場に通う人間に向けて建てられたという、二階建ての女性専用アパート。

 八部屋あるワンルームの住人は小熊と、同じ一人暮しで隣駅の高校に通う女の子と、工場勤めの女性が何人か。

 部屋を出る時間が各々異なるため住人同士の交流はほぼ無い。

 駅から歩くには遠く、北杜市が合併する前の旧武川村中心部にある高校に通うには少々不便なアパートまでの初走行。正直自転車で帰るより疲れた。

 小熊はアパートの駐輪場にカブを停めた。スペースの空いていた真ん中近くに停めた後で、部屋の大窓から見える端っこ近くに停め直す。

 1DKの部屋に戻り一息ついた小熊は、大窓を開けてカブを眺めた。自分のバイク、今の暮らしを始めて最初に手に入れた、とりあえず財産といえるもの。カブを見ていた小熊は部屋を振り返った。

 ベッドと机と少々の服。最近になって生活用品だけの部屋を見るのに物足りない気分を抱き始めていたが、今はカブがある。一度部屋に戻った小熊は、雑巾を手に取りながら玄関から外に出て、駐輪場のカブを磨いた。


 小熊はカブを磨きながら、明日は隣の韮崎市まで行って鍵を買ってこなくてはと思った。

 アパート敷地の奥にある駐輪場とはいえ、盗難は心配なもの。東京で暮している頃に母が自転車を盗まれたことがあったが、母は小熊を叱る時よりずっと怖い顔をしていた。

 韮崎まで甲州街道を走るにはどれくらい疲れるんだろうと考え、もうペダルを漕がなくていいことに気付き、ついニヤニヤと笑ってしまう。

 カブを磨き終わり、部屋の冷蔵庫から出した麦茶を飲んで一息ついた小熊は、まだ夕飯まで時間があることに気付き、もう一度カブに乗ってみようかと思った。

 部屋に放り出したヘルメットとグローブに伸びかけた手を引っ込める。正直、原付という乗り物を動かすのはまだ緊張する。

 外を見れば誰でも乗っている原付。爺さんのバイク屋から家までの数kmの帰路で散々怖い思いをした。

 何とか三速までギアを上げて走る方法は覚えたけど、自転車の早漕ぎ程度のスピードしか出せない。それ以上アクセルを開けようにも体が恐怖を覚えてしまう。後ろから来た車が次々と自分の横を追い越していった。

 普段見ている新聞配達や畑の見回り、あるいは通学で原付に乗ってる人はこんな凄いことをしているのか改めてと思わされる。奨学金の蓄えをはたいて買ったのを失敗だとは思わないけど、これは自分を望む場所に連れてってくれる魔法の乗り物ではなかった。

 自転車が肉体のカロリーを消費するように、原付は距離と速度に相応の精神負担を強いる。乗せて連れてってくれる物ではなく、一緒に走るもの。

 カブに乗るのは明日から少しずつ、そう決めた小熊は夕食の準備を始めた。

 初夏の遅い夕暮れの部屋で、カブを眺めながら冷凍ピラフの手抜き夕食を食べた後で、風呂に入り授業のノートに目を走らせる程度の予習復習を済ませた。

 ここ最近は規則的だった生活に今までとは違うものが入ってきたことで気疲れしたらしく、いつもより早い時間に布団に入った。


 小熊は布団の中で目を覚ました。

 寝るときも着けっぱなしの腕時計を見ると、普段は起きることにない零時少し過ぎ。寝直そうと思った小熊は、その前にベッドから出て部屋の大窓を開けた。

 昼間は少々暑い季節だけど、南アルプスに近い高原の町は夜になると涼しい風を運んでくる。部屋の窓からアパート近くの街灯に照らされたカブを見た。

 せっかくお金を貯めて買ったオモチャが盗まれていないことを確かめた小熊は、もう一度ベッドに入ったが、目が冴えて眠れない。

 昼間初めてカブに乗った恐怖が思い出される。不快な恐怖ではなく、怖い思いをするのはわかってるのに確かめたくなるような気持ち。

 何にせよせっかく買ったカブ、上手に乗れるようになるのは出来るだけ早いほうがいいだろう、そう言い訳した小熊はパジャマを脱ぎ、学校のジャージを身につけた。


 深夜の日野春駅近辺は思ったよりも走りやすかった。

 人がランニングする程度の速さで走っていても車に追い抜かれることはなく、みっともない走りをジロジロ見る歩行者も居ない。何より夜の風が気持ち良かった。

 駅近辺だけと思っていたが、気がつくと駅から国道に至る坂を降りていた。自転車で走る時と同じくらいの速度なら怖くないが、少々物足りないので、もうちょっとスピードを上げてみる。引き返して坂を登った。いつも汗を流し足の筋肉に悲鳴を上げさせながら登る坂が、右手を捻っただけで登れる。自転車では出来ないことが出来る。

 国道を渡って夜中の学校まで行ってみたり、夜でも車が走ってる国道二十号線の端っこを走ったりする。少しずつ、少しずつ出来ることを増やしてく。国道沿いのコンビニでカブを停めた。

 特に何か買うものがあったわけではないが、夜中に灯りを点すコンビニが見てみたかった。これからは自由にこういうことが出来る、買って良かったかな、と思った小熊は、カブのキックペダルを踏んでエンジンをかけようとする。

 カブのエンジンがかからない。何度キックしても始動しない。中古車なんて買うんじゃなかったと思った小熊は、途方に暮れる思いだった。

 押して歩くと重そうなカブ。これからあの坂を登って家まで帰るのか、それともバイク屋に、あるいはカブはコンビニで預かってもらって明日取りに行くか、第一、今夜わたしは家に帰れるんだろうか。

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