第2話 カブを買いました

 値札をつけて並べられたバイクを見てわかったのは、自分の蓄えでは到底手が届かないということだけだった。

 結局のところ、一時の気の迷いで欲しくなった原付という物も、何もない自分を変えてくれるわけではなかった。

 つまらない思いをさせられるだけの寄り道を切り上げるべく、小熊が自転車に跨ると、中古バイク屋の中から誰かが出てきた。

 白いツナギの作業着。剃りあげた頭。顔にはお爺さんと言ってもいい年齢らしき皺が刻まれているが、少年のように小さくつぶらな目をしている。

「お客さんかい?」

 口数少ないながら口調は老いた外見より明瞭で、愛嬌を感じさせる声の爺さん。街でチラシやティッシュを配られても黙って何も受け取らないタイプの小熊は、そのまま何も言わず店を去ろうとしたが、一度乗った自転車を降りて爺さんに返答した。

「原付が欲しいと思ったんだけど、どうやらお金が全然足りないみたいです」

 一人暮らしをしていれば物売りをお断りする方法くらい覚えるもの。最初から応対しないという方法が一番なら、二番は金が無いという言葉。小熊はこの爺さんも冷やかしかと思ってさっさと追っ払うだろうと思った。

 爺さんは意外なことに小熊の顔を見て、それからすぐに顔をそらして言う。

「中古でよければ」

 中古も何も店頭に並んでる何十万円かのバイクは、どれも綺麗に磨きあけられてはいるが中古バイク。バイクについた値札には年式と走行距離が書かれている。


 なんだかこの爺さんは言ってることがおかしい。小熊がさっさと立ち去ろうとしながら、そうしなかったのは、この接客業にしては話し下手で、人とろくに目を合わせない老人が、自分と同種の人間じゃないかと思い始めたから。店には他に従業員らしき人間は見当たらない。

 小熊は何も言わず、爺さんの次の言葉を待った。今この店で原付を買うのは無理でも、これから奨学金を貯めてバイトでもして、甲府か松本あたりの大きなバイク屋で優良な中古原付を買うならば商品知識って奴はあったほうがいい。

 ここでのお喋りも損にはならないかもしれないと自分に言い訳をしてみる。

 爺さんは何も言わず店の裏手に回り、一台のバイクを押してきた。小熊は爺さんの言った中古でよければという言葉の意味を半分ほどわかった。 

その原付は店の表に並んでるスポーツタイプやオフロードのバイクは異なる、学校のバイク駐輪場に停まってるスクーターとも違う二輪車だった。

 新聞配達や出前、交番バイクに使われている原付。スーパーカブと呼ばれる乗り物。

 ただの生活道具に過ぎない自転車ではなく、自分の暮らしに何かを与えてくれるものを期待して原付を見に来たが、目の前にあるのは道具以外の何物でもない原付。表で野ざらしだったのか、ひどく汚れている。

 爺さんは埃まみれのシートを雑巾で拭いてから小熊を見る。跨って見ろということだろうか?と思った小熊は、こんな物に乗っても何も得られないという感想しか沸かなかった。

 小熊の腰が引けているのを感じ取ったらしき爺さんは、カブのメーターに目を落としながら言った。

「一万円」

 小熊はジャージズボンの尻をはたき、カブに跨る。乗ってから断っても遅くない。この自転車と大して変わりない値段で、あのキツい上り坂から開放されるなら、それも悪くないんじゃないかと思い始めた。


 カブのシートに尻を乗せ、ハンドルを握り、センタースタンドで直立させられたカブの左右のステップに足を乗せた。

 小熊の頬を風が撫でた。

 停まってる原付。無風の天候。吹くはずも無い風。これで本当に走ったらどんな気分なんだろう。

 小熊は爺さんの顔を見て言った。

 「これ、買います」

 言った後で小熊は話が不自然であることに気付いた。このカブという原付の中古車が普通どれくらいの値で売られてるのか知らないが、あまりにも安すぎる。埃は被ってるがその下のプラスティックは緑色の塗装も真新しく、メーターの走行距離を見ると500km少々しか走ってない。

 何より爺さんがカモを捕まえたって顔をしてない。目を合わせず愛想笑い一つしない。このカブを売り渋ってるようにも見える。

 小熊は単刀直入に聞いてみた。

 「なんで一万円なんですか」 

 爺さんは相変わらず目線を落としたまま言う。

 「人を死なせてる、三人」

 小熊は幽霊やオカルトには人並み程度の感情を持っている。呪われた物って奴は見たことないがあってもおかしくないと思ってた。

 今まで自分が四人目になるようなリスクは避けて生きてきた。

 「構いません、買います」

 爺さんは目線を上げ、しばらくカブと小熊を交互に見ていた。断られて当然の商談で予想外の反応が返ってきたことに頭が追いついてないように見える。一歩離れて小熊とカブ、両方を視界のフレームに納めて眺めていた爺さんは口を開いた。

 「中に」

 小熊は店内に入る爺さんについていくように中に入った。意外と整頓された店内。テーブル前の椅子を手で勧めた爺さんは書類棚から何枚かの紙を取り出した。


 原付というのは、自転車みたいに買ってそのまま乗って帰れない物らしい。爺さんに言われる通り書類にサインした小熊は、役所に出す書類を作成して貰った。

 その時になって原付の免許を持ってないことに気付いた小熊は、甲府にある運転免許試験センターの場所と申請の方法も教えて貰う。

 爺さんは学科試験の問題集もタダでくれた。

 数日後、小熊は新しいナンバーと免許証を持って、バスに乗ってあのバイク屋まで行った。帰りは自分の原付で帰る積もり。バイク屋の前ではあの爺さんが背を丸め、緑色のカブを磨いていた。

 雨ざらしで埃まみれだったカブは見違えるように綺麗になっていた。爺さんは視線を上げて小熊の姿を見たが、相変わらず愛想笑い一つしない。

 小熊はナンバーと各種書類と一緒に代金を支払う。登録は小熊が自分でやったし、爺さんは書類作成他の手数料を取らなかったが、保険や共済で費用は上乗せされ、結局小熊が奨学金の中から積み立ててた貯金をほぼ使い切ってしまった。

 新しいナンバーを取り付けたカブに跨った小熊は爺さんを見た。お礼の一つも言うつもりだったが、それよりエンジンのかけかた、この両足で踏むレバーみたいな物の操作方法を聞かなくてはならない。

 爺さんはカブと小熊を見て、言った。

「ヘルメットとグローブは?」

「持ってきてますよ」


 小熊が取り出したのは学校指定の自転車通学用ヘルメット。

 工事用みたいな白いヘルメットに学校名が入った物で、あまり多くない原付通学の生徒の多くはこれで済ませてる。

 ヘルメットと一緒に学校の購買部で買った軍手を見せる。

 爺さんは「少し待ってて」と言って店の中に入り、それから何かを両手に抱えて来た。白いオープンフェイスタイプのヘルメットと灰色の革手袋。

 小熊に差し出されるヘルメットとグローブ。

 「これは何人殺してるんですか?」  

 今まで一度も笑わなかった爺さんが笑顔に見えなくもない表情を見せた。

 「新品、キャンペーンって奴」

 店内には今ならお買い上げのお客様にヘルメットをプレゼントというポスターが貼ってあった。写ってる水着姿のタレントは確か今ではかなりのご老体。

 ヘルメットを被り、グローブを着けた小熊は、爺さんに教えてもらいながらカブのエンジンをかけた。スタンドを下ろし、こっちも習いつつギアを一速に入れ、アクセルを回した。

 カブが動き出す。出来るか出来ないかわからないと思いながら教わった通りアクセルを戻し、ギアペダルを踏んで二速に切り替える。

 カブはガクっと揺れながらも変速に成功し、自転車をちょっと速めに漕いだ程度のスピードを出す。それ以上は怖くて出せないが、今はそれでいいと思った。

 何も持たない一人ぼっちの少女は、スーパーカブを手に入れた。

   

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