第54話 人助け

 ガソリンを満タンにした小熊は、国道二十号線を東へと向かった。

 バイトで何度も通った道を走り、甲府と勝沼の境目で右に折れて国道百三十九号で御坂道を南下した。

 休日や放課後に走り回った経験で、この辺の道はまだ知ってる。確か以前走った時は御坂峠の手前で時間が無くなり引き返した。

 未知の道路に挑む小熊に不安は無かった。平日昼で車が多くなく少なくもない道で、今まで見たことの無い景色を楽しみながら走る。

 平地ではメーター読みで70km近く出るカブも登り坂には弱く、傾斜が急だと40km近くまで失速する。御坂の峠越えを少し心配したが、峠をトンネルで抜ける新道はそれほどカブに負担を与えなかった。

 カムイみさかのスノボゲレンデを右手に見ながら南下すると、遠目には白い頂しか見えない富士山の巨大な裾野が見え始めた。

 礼子はこの山の、見上げても見えない頂上まで登ろうとしたんだろうか、と思いながら富士山の北側を走り、富士吉田の市街地経由で山中湖に達する。

 湖面を眺めながら一休みしたかったが、信号待ちでカブのコンビニ袋用フックにブラ下げたペットボトルケースのお茶を一口飲んで済ませる。

 富士山の東側を走り、御坂より難物だった籠坂峠を、低速で走る自衛隊トラックの後ろにコバンザメのようについてって御殿場に達した。ここまでで一時間半。時間にはまだ余裕がある。


 御殿場で小熊は少し道に迷った。

 このまままっすぐ南下すれば、箱根の山を越えて小田原で国道一号線に突き当たる。そこで左に曲がれば神奈川入り。湘南経由で鎌倉に着く。

 ここで左に曲がれば国道246号線。少し遠回りになるが地図を見る限り、さほど過酷な山越えをすることなく小田原に出られる。

 休憩を兼ねてどこかに止まり、地図を見ながら考えようと思いながら、御殿場の街を走る。

 道端に一台のカブが止まってるのが見えた。自分と同じく高校生らしき男子が、パンクしたらしくタイヤの潰れた青いカブの横で座り込んでいる。

 特に何の感想も抱かず通り過ぎた小熊は、どこか休憩できる所を探して走ったが、なかなかいいところが見当たらない。

 信号でUターンした小熊は今まで走ってきた道を引き返す。もう一度Uターンした小熊は、路肩でカブを止めた。

「パンクしたの?」

 青いカブの横で泣きそうな顔になっていた少年が、小熊を見上げた。


「あの、走ってたら急にガタガタってなって、押して歩くことも出来ないんです」

 少年は小熊よりだいぶ年下に見えた。原付に乗っているからには十六歳以上なんだろうけど、体全体の線の細さからそういう印象を受けるんだろう。

 パンクしたカブは潰れたタイヤが抵抗になって、押して歩くのにひどく苦労することは、何度かのパンク体験で知っている。

「ちょっと見せて」

 少年が乗っているのは、まだ真新しい青いカブ。タイヤとブレーキが小熊のカブより一回り大きい。

 新聞配達用のプレスカブって奴だった。エンジンは黒。小熊のカブより新しい燃料噴射装置式のカブ。

 立てられたサイドスタンドを一度外し、センタースタンドをかけた小熊が、パンクしたという後輪を見ると見事に潰れている。トレッド面に小さな金属の頭が見えた。

 グローブを着けたまま金属片を引っ張ったら抜けた。細い木ネジ。道路に落ちてるのを踏んづけたんだろう。

 完全に空気が抜け、潰れたタイヤを見た小熊は、心配そうに見ている少年に聞いた。

「これ、前にもパンクした?」


 カブのタイヤは内部に封入された薬液によってパンクが塞がるタフアップチューブを使っている。木ネジ程度の穴ならチューブ内の薬液で修復されるはず。タフアップチューブに穴が開いた時は緑色の液がタイヤやその周辺に飛び散るはずだが、それも見当たらない。

「あの、買ってすぐの時に、家の前でパンクして、その時はお父さんに直してもらったんです」

 理解した。その時にタフアップチューブを使わず、値段にして四分の一の普通のチューブに交換したんだろう。小熊もそうしている。見た感じ空気は抜けてるが、真新しいタイヤはリムに嵌っていた

 タイヤを一通り見た小熊は、少年に言った。

「1kmちょっと先に自転車屋がある。そこまで走るから、私のカブでついてきて」

 小熊はそれだけ言って、少年の青いカブをキックしてエンジンをかけた。礼子は電子制御のカブをゴミだと言ってたが、アイドリングは小熊のカブより静かだった。

 少年が恐る恐る小熊のカブに乗り、エンジンをかけたのを見て、小熊は青いカブでゆっくり走り出す。

 パンクしたカブは潰れたタイヤが抵抗になり、押して歩くことも出来ない。しかしチューブは補修せず交換すると割り切って、タイヤが外れないように低速で走れば結構な距離を走れる。

 小熊はタイヤとバックミラーの両方に気を使いながら、道の端を走った。少年は小熊のカブでついてくる。荷台に旅荷物を積んでいるだけで、同じカブなのにフラついている。


 1km少々を走り自転車屋に着いた小熊は、裏に停めてある蕎麦屋らしきカブをチラっと見てから店に入る。

 たぶんこの近辺の仕事用カブの面倒を見てる店なんだろう。

「すみません、そこで原付のタイヤがパンクしちゃって」

 店主はカブをチラっと見て渋い顔をした。

「ゴメン今チューブの在庫無いんだ、いつもならカブのだけは置いてるんだけどなー」

 小熊は首を振ってから言う。

「工具だけでも貸して貰えれば」

 遅れてきた少年の乗ってきたカブの後部にある荷物箱から、道中でのパンクに備えて入れてあった予備チューブを出した。

 自転車屋は店の奥に工具を取りに行った。小熊は自分のカブに跨ったままの少年に言う。

「六百円」

 小熊が近くのホームセンターで買っているカブ用チューブの値段。少年は小熊を見て、それから自転車屋を見て、もう一度小熊を見て冗談ではないと気付いたのか、ポケットから財布を取り出して六百円を渡した。

 店主が貸し出し用と書かれた工具箱を手にしながら言った。

「ウチならパンク修理だけで三千円取ってるぞ」

 小熊は工具の礼を言い、自転車屋の軒先を借りて青いカブの後輪を外し始めた。


 小熊が後輪のナットを足で踏んづけて緩め、センタースタンドで立てただけでは外せない後輪を、車体を傾けて外してるのを見た自転車屋が言う。

 「お嬢ちゃん慣れてるね」

 小熊は作業に集中しつつも、少し苦い笑顔で答える。

「何度か、やっちゃいましたから」

 店主はそれだけで納得したのか、頷きながら店の奥に引っ込む。

 小熊が重いタイヤを持ち上げようとすると、少年の手が伸びてきて一緒に持とうとする、小熊は少年を見もせずに言った。

「手は出さないで、そこで見てて」

 少年は小声で「ごめんなさい」と言いながら小熊の近くから離れる。

 それから少年は話し始めた。

「カブっていいですよね、動画サイトのカブ耐久性テストを見て欲しくなちゃって、お父さんに買って貰ったんですけど、他の原付と違って、なんか、生き物みたいで、それにプレスカブって普通のカブよりプロっぽいでしょ」

 小熊は少年の言葉に返答した。

「気が散るから黙ってて」


 タイヤとブレーキ周りのボルトを外し。車体から外したタイヤを地面に置いて、カブに積んであったシャモジ型のタイヤレバーでホイールからタイヤを外す。

 カブのタイヤは他のバイクのように、自動車と兼用の先が尖ったタイヤレバーを使うとチューブを破る。小熊はこればかりは出先で借りられないだろうと思い、車載工具のスペースにシャモジ型のタイヤレバーを入れていた。

 外したタイヤからチューブを取り出し、新しいチューブを取り付けて、タイヤのマーキングとホイールリムのバルブ穴の位置を合わせてタイヤを嵌めなおす、空気を入れて漏れが無いか確認した。

 それからタイヤを再び車体に取り付け、アクスルとブレーキ周りのボルトを締める。

 もう一度タイヤの空気漏れが無いかチェックし、それから各ボルトの締め忘れが無いかも確かめる。

 作業終了。工具を雑巾で綺麗に拭いて工具箱に戻した小熊は、店前の水道を借りて石鹸で手を洗い、自転車屋に礼を言って工具を返す。

「仕事が速いな、ウチで働かないか?」

「こっちに引っ越したら是非そうしたいですね」

 愛想笑いじゃない、同じ苦労を知り、共有する者同士の愉快な気持ちから出た笑顔。


 自転車屋にもう一度礼を言った小熊は、自分のカブに腰掛けて作業を見ていた少年の肩に手を置き、掴んで引っ張る。

 カブから引きずり下ろされた少年はつんのめって足踏みする。これじゃカブが悪路や雪道でタイヤを滑らせた時に足を踏ん張ることも出来ないだろう。

 小熊は自分のカブに跨り、エンジンをかけながら言った。

「パンク直ったよ、それじゃ」

 カブで走り去ろうとする小熊は腕を掴まれた。猫の前足ほども無い力。少年は小熊の腕に手をかけながら言う。

「お姉さんのおかげで助かりました。何かお礼がしたいです」

 小熊は少年の手を払いながら言った。

「チューブ代ならさっき貰った」

 少年は小熊に体を寄せながら言う。

「お姉さんとカブの話がしたいです。良かったら何か奢らせてもらえませんか」

 小熊はエンジンをかけたままカブのサイドスタンドを下ろし、シートから降りた。

 自分のカブがパンクしたというのに何も出来ないくせに、つまらぬ助平心を出している目の前の少年に、無性に腹が立った。


「カブの話、カブのことなら、一つ話すことがある」

 小熊は革ショートブーツの爪先で、少年の膝を強く蹴った。

 幼児のような声を上げてその場に蹲る少年。小熊はカブに跨りなおし、スタンドを上げてギアを一速に入れながら言う。

「カブで転ぶと、もっと痛い」

 泣き声混じりで呻く少年を置いて、小熊はカブで走り出した。

 自分が何でこんなことをしたのかわからなかった。不必要に体に触れられた時や、先を急ぐ身なのに引きとめられた事よりも、同じカブ乗りという言葉に腹が立った。

 自分も色んな人間に助けられてカブに乗り続けていられた、だから同じカブ乗りとしてパンクを直してあげたが、カブをオモチャか何かだと思ってる子供と一緒にされたくは無い。

 小熊は御殿場の町を出た。国道百三十九号線に戻って南に走り、さっき避けようと思っていた箱根の山を越えることに決めた。

 その先は神奈川県。目的地の鎌倉は目と鼻の先。  

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