第41話 頂点
須走五合目の売店で働き始めて数日。礼子の挑戦が続いていた。
かつて著名なオフロードバイカーの多くが踏破したブルドーザ登山道を、自分のハスラー改125で登る。
初日は七合目を過ぎたあたりで無様に転倒した。二日目は同じく七合目付近で鋭い石にタイヤを取られ、どうにも進まなくなったところで時間切れ。
三日目は八合目が見えたところで礼子自身がトラブルを起こした。急激な登山による高山病でひどいめまいに襲われる。
礼子とハスラーは日に日に傷を増やしていくが、登頂は同じ場所で足踏みするばかり。これが私の限界か、自分を囲う不自由な壁を乗り越えることが出来ない人間なのか、そんなことは認めたくない。
早朝。いつも通り荷積みのバイトを終えた礼子は、ハスラーを出してエンジンをかける。
服装はここに来てずっと同じブルーグレイの作業着上下と安全靴。地味な格好に不似合いなモトクロス用ヘルメットとグローブ。
近年の富士山が掲げる自然保護の精神に反した礼子の行動を黙認し、ブルドーザ登山道をバイクで走るため天候と路面の確認という仕事まででっち上げてくれた店主が、礼子のところまでやってきた。
「山に体を立ててはいけない、体を沿わせるんだ」
彼はそれだけ言って自分の仕事に戻る。凍傷で足指を失うまで登山家として世界各地の山を制覇したという、老いた店主の言葉に、礼子は胸をサクっと刺された気がした。
私は力が入りすぎていたのかもしれない。自分を阻むものを乗り越えるため、まずは北杜の地元に居ても一番目につく富士山を登ってみようと思った。
富士山を踏みつけ、従わせようとした結果、その足元にすがりつくことさえ出来ず降参した。
ここ数日の連敗で笑顔すら忘れていた。バイクで富士山を登る。こんな楽しいことをするのに何で私は憎むべき敵に苦しめられているような気分になっていたんだろう。
さっき何気なく見た富士山をもう一度見上げた。今日は空気が澄んでいて頂上まで良く見える。山頂に微かに雪化粧が残る夏の富士。綺麗な山だと思った。
礼子はハスラーのギアを一速に落とし、エンジンを吹かして登山道へと走り出した。
ブルドーザ登山道は今日も過酷だった。
物資の輸送と傷病者救護に使われる登山専用の履帯車に適応した道路は、大きく鋭い石で出来た砂利道で、バイクでは常にトルクをかけて押し通らないと走れない。
惰性で走ったり回転を落としたりすると、すぐに大きな石礫がタイヤをくわえこみ、前進を阻む。
礼子がこの挑戦のためにエンジンを載せ変えたハスラーは、平地では充分なパワーを発揮するが、急勾配と強い路面抵抗が絶えず負荷を与えるブルドーザ登山道では、常に高回転を維持していないと前進すらおぼつかない。
五合目から六合目までは何事もなく通過する。本六合目を過ぎると傾斜がきつくなる七合目までの道も走り方がわかってきた。直線と180度近いカーブを繰り返しているうちに七合目に達する。
山の気温と気圧には境目があって、本七合目を過ぎたあたりで急激に目まいが起きる。頬の内側を噛んで意識をはっきりさせた。振動で噛み千切らないようにすぐに歯を緩めたが、強く噛みすぎたらしく血の味がする。
自分の体内を駆け巡る生命の味をペっと吐き出しながら、まだ見えない八合目の方角へと視線を向ける。
目まいはもう気にならない。きっとここ数日のチャレンジで高所に慣れつつあるんだろう。
バイクは視線の方向へと動く。下は見ないで上を見る。しかし大小の石が散らばる登山道では常に路面を見ていないと走行可能なルートを選択できない。
礼子は一秒の何分の一か下を見ながら上を見続けるいう行為を繰り返しながら走り、登る。
進行方向と路面の情報が同時に脳に入ってくる。人間はこんな事まで出来るようになるのか。それまで目に入らなかった周囲の風景まで見えるような気がする。眼下に広がるのは自分が生きている世界。ここから見るとちっぽけなもの。
遠かった八合目が見えてきた。ここから頂上までが、最も過酷で危険な道になる。
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