悩める若者と周辺の人たち
四回生になって、これまで月一程度でしか開かれていなかった就職説明会も、いつの間にか連日行われるようになった。その度に淳は頭を抱える羽目になる。
早い生徒の中には、既に内定をもらっている者もいるらしい。それなのに淳は、まだ何も行動できないでいた。
教授やかつての先輩からは、いくつかパンフレットを貰ったりもした。中身は様々で、博物館の学芸員だったり、教員だったりといった具体的な職業の名前がずらりと並んでいる。
どれを見ても、やはりピンとこなかった。いまいち実態をよく分かっていない、というのが大きな理由なのだろう。
淳が所属しているのは歴史を専門とした学科で、昔から歴史――特に日本史が好きだったからという至極単純な理由で進学を決めた。そこで何をしたいとか、どういう職に就きたいとかは、正直言って何も考えていない。
今思えばただ……逃げたかっただけなのかもしれない、と思う。
家庭に不和があったわけではもちろんない。確かに父親は母親の再婚相手であり、自分との血の繋がりなど微塵もないけれど、それでも自分は彼を本当の父親だと思っているし、これまでずっと親子としてうまくやってきた。
今だって、時折連絡を取り合ったりしているし、両親揃って自分のことを心配してくれているのが嫌というほど伝わってくるくらいだ。
――では、何故逃げたのか。
そもそも、何から逃げたというのか。
誰にも言ったことはないし、誰かに聞かれたらそれを具体的に説明できる自信もないけれど、淳の中には『自分は逃げたのだ』という意識がまるで当然のように強く根付いていた。
◆◆◆
「淳くんって、そういえばまだ大学生なのよね」
アパートの管理人宅にて、ソファにゆったりと腰かけながら優雅に紅茶を啜っていた浩美が、ふと思い出したように口を開いた。
「あぁ、そうだったのね」
その隣でハーブティーを飲んでいた由希子は、淳を見ながらまるで今知ったとでも言うかのように目をぱちくりさせる。
「若いなぁとは思ってたけど」
年齢を感じさせない大きな丸い目に遠慮なく見つめられ、二人の向かいで珈琲を飲んでいた淳は反射的に委縮してしまった。
普段からアパートにいる浩美と、専業主婦である由希子は、良くこうして二人でお茶を飲むらしい。いつもと違うことといえば、この場に淳が一緒にいることくらいだろうか。
今日はたまたま大学が休みだったのだが、どこからか――おそらく、和也からだろう――その情報を聞きつけたらしい由希子が、それなら一緒にお茶を飲もうよ! と誘ってくれたのである。浩美も当然のごとく『人数多い方が楽しいし、大歓迎よ』と受け入れてくれた。
とは言っても、やはり女性二人の中に男一人というのは、どうにも居心地がよくないもので……。
「みっくんとか和くんから、聞いてなかったですか」
緊張気味に尋ねてみれば、二人はそれぞれ思案するような仕草を見せた。
「大学生だとは、聞いていたわ」
「そういえばあたしは、かずくんとそういう話したことないなぁ」
なるほど、と淳は思う。
本人たちいわく、もともと『馬鹿騒ぎ出来る友達みたいな関係』だというのだから、あまりそういう突っ込んだ話はしないのだろう。
由希子は和也と和解してからというもの、かなり明るい性格になったように見えた。もともと明るい方ではあったけれども、最近は特にそうだ。
この姉弟はもともとそういう性質だったのだろうが、これまでピリピリとした間柄しか見ていなかった淳にとって、二人が意気投合したかのごとくはしゃいでいる姿は、少しばかり珍しいような気がしてしまう。充紀や浩美も同じような感想を抱いていたらしく、最近の二人を目にした時は、揃って目を丸くしていた。
「何年生?」
「今年で四回生です」
「あら、じゃあもう就職を決めないといけない年なのね」
浩美の何気ない――ただ事実を口にしているだけの簡単な言葉が、ぐさりと淳の心に突き刺さる。彼女に悪気は少しもないと分かっているのだが、それでも気持ちが重くなるのはどうしても抑えられなかった。
思わず目を伏せた淳の様子に気付いたのか、由希子が心配そうな声を出す。
「淳くん……大丈夫? 気分悪い?」
その言葉で、淳はハッとする。
何をやっているんだろう、自分は。周りに余計な心配をさせてはいけないと、自分で乗り越えなくてはいけないのだと、つい先日決意したばかりではなかったか。
曖昧に笑みを浮かべ、答える。
「大丈夫です。ちょっと、就職について迷ってるだけなので」
なるほど……と由希子が感心したように腕を組んだ。浩美も相槌を打つように、隣で幾度かうなずく。
「そりゃあ当然よね。まだまだたくさんある可能性の中から、どれか一つを選ぶんだものね」
「そうなんですよ。一般企業でももちろんいいですし、実際いくつか説明会に行ったりもしてるんですけど、教授には教師とか学芸員とか、図書館司書を目指すのでもいいんじゃないかって言われてて……」
「迷っちゃうわね」
「ねぇ、淳くんって何を専攻してるの?」
「歴史です」
「具体的にどういうことを勉強してるのか、教えてもらってもいいかしら」
「あ、あたしも興味ある」
「いいですよ」
話題が少しずれたことに安堵を覚えつつ、淳は珈琲を口にしながら質問に答えていった。由希子は好奇心に満ちた丸い瞳をくるくると動かしながら幾度も感心し、浩美も淳の話に楽しそうに耳を傾けている。
淳の心がほろほろと解れていくのと共に、昼下がりのティータイムはゆっくりと過ぎていった。
◆◆◆
『どうや、就職の方は決まりそうか』
「うん……」
電話口でお決まりのように尋ねられ、気分の落ちた淳は思わず暗い声で答えてしまった。しまったと思ったが、どうやら電話の向こうの相手はあまり気に留めていないらしい。元々のんびりしている人だから、当然と言えば当然かもしれないが。
淳が黙っていると、間延びした声が言葉を紡いだ。
『歴史の学科って、具体的にはどういう職業に繋がんのや? 私ら素人やで、よぉわからへんけど』
「社会科教師とか、図書館司書とか。学芸員とかもある」
『学芸員って?』
「博物館とかに、スタッフさんみたいなのがよぉいてるやろ。そういう人たちが持ってる資格のことや」
『ほぉ、そんなんあんのや。知らんかったわ』
「知らん人の方が多いと思うけどね」
『でもまぁ、あんまり無理したらあかんよ。給料なんてどぉでもえぇから。淳がちゃんとやりがい持って頑張れるようなところ選びね』
母親の言葉に、淳はさらに気落ちする。
『ちゃんとやりがいを持って、頑張れるような場所』とは言っても……それが分からないから、自分は今こうして迷っているのだ。
今すぐ主張したい衝動に駆られるけれど、口を開いても声は出ない。喉元で引っかかって、何を言いたいのかが一気にわからなくなってしまう。
そもそも言ったところで、何か解決するのだろうか。
「ん……」
ただ、返事にならないような返事をすることしか出来なかった。
『母さんも父さんも、淳の選んだ道に反対はせんでの』
「ん」
息子の元気がないことに、母親なら普通気づくだろう。
けれど電話口の彼女は鈍いのか、それとも気づいていながら指摘しないのかは知らないが、まったくもって普段通りだった。
この話は終わりだとでも言うように、唐突に話をずらす。
『それはそうと、みっくんと和くんは元気にしとんなるか?』
「元気よ。相変わらず、仲よぉやっとるし」
『それならえぇんや』
そろそろお父さん帰ってくるで、ご飯作るなぁ。
そう言って、母親は電話を切った。
携帯を握りしめながら、淳はしばらくぼんやりと宙を眺める。いろんな考えが、頭の中をぐるぐると巡っていた。
やがて、玄関のドアが開く音で淳は我に返った。
仕事を終えた充紀と、充紀を迎えに行っていた和也が、揃って部屋に入ってくる。何をするでもなくぼんやりと床にへたりこんでいた淳を見て、二人は揃って目を丸くした。
「……お帰り」
「ただいま……どした、淳」
「そんなとこいないで、ソファに座りなよ」
「いや……ソファの上は、蒸れるでさ」
適当な言い訳をしながら、淳は慌てて立ち上がる。充紀も和也も、そんな彼を気がかりそうに見つめていたけれど、それ以上何か声を掛けることはなかった。
スーツの上着を脱いだ充紀と、連れ立ってダイニングに向かう。和也は充紀の脱いだ上着をハンガーに掛けた後、少し遅れてダイニングに足を踏み入れた。
出掛ける前に和也が用意していた夕食――淳も、作るのを少し手伝っている――を皿によそい、並べていく。
「最近は淳も、家事を手伝うようになったんだな」
「そうなんだよ。どういう風の吹き回しかなって密かに思ってるんだよね」
「ちょっと和くん、失礼じゃない?」
ちょっとは褒めてくれてもいいじゃん、などと軽口を叩きながら、充紀の拭いたテーブルに料理を並べていく。
「今日の夕飯は、グラタンだよ」
「スーパーで蟹が安かったんだよねぇ」
「へぇ、美味そうじゃん」
三人でダイニングテーブルを囲み、手を合わせる。
「「「いただきます」」」
いつもの掛け声が、何故だかとても心地よかった。
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