埋まらない溝

 管理人室として宛がわれた浩美とその旦那の住居は、通常のアパートより幾分か広い造りになっていた。好奇心旺盛な淳だけでなく、充紀も自然と物珍しく辺りを眺めてしまう。

「なかなかいい部屋に住んでんじゃん」

「うふふ、まぁね」

 中で待っていた浩美の旦那は、家にやって来た四人の客を笑顔で歓迎してくれた。夕食を作るべく、彼と浩美は揃って台所に向かう。

 「俺も手伝います」と言って着いて行こうとした充紀を制し、「お客さんはゆっくりしてください」と言い切った浩美の旦那を、充紀はどこか眩しそうに、頼もしそうに見つめた。

 リビングに鎮座する大きなテーブルの傍には、三、四人ほどが掛けられる程度の大きさのソファが二つ、向かい合わせに置かれている。由希子が座った方の反対側のソファに、三人はそれぞれ隣り合わせに腰かけた。

 マスカラとアイシャドウで彩られた豪奢な目をくるくるとさせながら、向かい側の三人を見た由希子は、興味深げに訪ねてきた。

「そういえばお二人、名前を聞いてなかったわ」

「篠宮充紀といいます」

「百瀬淳です」

「充紀さんに、淳くん。よぅし、覚えたぞ」

 胸の前で小さくガッツポーズをする姿は、さながら女子高生のようでもあり、ますます年齢不詳感を漂わせる。

「ちなみにあたしのことは、気軽にユッコって呼んでくれていいからね」

 まぁ、浩美さんもかずくんもさっきからそう呼んでるし、今更なのかもしれないけどねぇ。

 うふふ、と笑う彼女を見て、どうやら隣人として仲良くやっていけそうだな、と充紀は漠然と思った。淳も同じことを思ったらしく、充紀を見てホッとしたように微笑む。

 いきなり環境が変わったことには驚いたものの、一応は平穏な日常を過ごすことが出来そうだ……と、油断しかけたその時。

「目的は、何なの。言っとくけどオレ、家には絶対帰らないからね」

 由希子から少し離れた位置に座った和也が、冷たく言い放った。どうやら彼だけは、由希子の登場をどうしても受け入れることが出来ないらしい。

 充紀と淳は思わず固まったが、それすらもまるで許容範囲だとでも言うように由希子は明るく笑う。

「嫌だなぁ、そんなんじゃないよ。ただの偶然」

「そんな偶然、出来すぎてる。どうせあの人たちに言われて、オレを連れ戻しにわざわざここまで来たんだろう」

 ――連れ戻しに?

 淳は、急に不安な気持ちになる。せっかく三人での生活も当たり前になってきたというのに、和也は実家に戻らなければならないのだろうか。

 由希子は、そのためにやって来たのだろうか。

 不安な気持ちで充紀を見れば、大丈夫だというように目を細められた。

 彼らの気持ちを知ってか知らずか、由希子が悪戯っぽく、まるでこの状況を楽しんでいるかのように笑う。

「優しいあんたの姉さんが、そんなことすると思う?」

「オレは、あなたを姉だなんて思っていない」

 その言葉には、隠しきれない棘があった。強気に由希子を睨む視線からは、心の底から憎々しいという感情と、こうしなければいけないのだという確固たる信念を感じさせる。

 由希子は一瞬だけ、悲しそうに眉を下げた。

「っていうか、あの……ユッコさん?」

 由希子と和也を取り巻く雰囲気を打破するように、淳がおずおずと口を開いた。充紀はヒヤリとしたが、すぐに表情を作り替えた由希子が笑みを湛えながら彼を見る。

「どうしたの、淳くん」

「話の腰を折って悪いんですけど……今、『姉さん』って」

「えぇ。そうよ。それが何か?」

 あっけらかんと言い切る由希子に、淳は唖然とした。充紀もまた、え? と驚いたように声を零す。

 そんな雰囲気ではないと分かっていても、言わずにはいられなかった。

「妹さんじゃ、なかったんですか」

 あら、と由希子が不思議そうに首を傾げた。それからすぐに、心底可笑しそうに声を上げて笑いだす。

「やだぁ、二人とも。あたしが、かずくんより年下だと思ってたの?」

 そりゃあ、若く見られること多いけどさ。もう三十だからね、あたし。

 そう言われて、充紀と淳は動きを止めた。もう一度、まじまじと向かい側の女性を――由希子を、見る。

 小さな丸い顔、くるくるとした目、つややかな唇、シミ一つない肌。化粧をしているので多少は誤魔化されているのかもしれないが、やはりとても二十代前半以上には見えない。女性を見る目が特別肥えているわけではない(と自覚している)、充紀や淳の目には素直にそう映った。

 また先ほどからの舌っ足らずな高い声や、少女じみた言動もまた、彼女を実年齢より若く見せる要因のようであった。どちらかというと、仏頂面で言葉少なな和也の方が、年上のように思える。

「ユッコは、そういう人間なんだよ。昔から、まるで何にも変わっちゃいない」

 抑揚のない声で、和也は言う。少なくともそれは、久しぶりに再会した姉に掛けるような言葉としてふさわしくない気がした。

 普段なら充紀は注意したかもしれない。いくら身内とはいえ、その口のきき方は何だ、失礼じゃないかと。

 けれど、和也のいつもと違った雰囲気が、それを阻んだ。

 彼らには――それは和也の、一方的な想いなのかもしれないが――何らかの確執がある。

 そしてそれはきっと、何も知らない他人である自分たちがむやみに首を突っ込んではいけないような、深いものなのだろう。

「ねぇ、かずくん」

 話を戻すように、由希子が言う。これまでの少女じみた無邪気な雰囲気とは違った、年相応の落ち着いたトーンだった。

「これだけは信じて。あたしは、夢を諦めろとか、故郷に帰ってちゃんと就職しろとか、そんなことを言うためにここに来たんじゃない。旦那の転勤も、このアパートに住むことになったのも、ただの偶然よ」

 でもね……。

 言葉を切った由希子は、未だ頑なに不信の目を向ける和也に、切なそうに微笑みかける。会って間もないはずの充紀にも、淳にも、その表情は何故かとても懐かしいように思えた。

「父さんも、母さんも、兄さんたち家族も……もちろんあたしだって、みんなあんたのこと心配しているのよ。あんなこと言った手前、合わせる顔なんかないって思ってるかもしれないけど……でも、お願い。ちょっとだけ。一回だけで、いいから」

「無理だよ」

 無情な響きを伴った声が、彼女の言葉の続きを阻む。ショックを受けたように眉を下げた由希子に、和也はきっぱりと言った。

「あの人たちはもう、オレの家族なんかじゃないんだ。心配してるなんて嘘だよ。……そもそも、あの人たちが」

 あの人たちが、先にオレを裏切ったんじゃないか。

 シン、とリビング中が静まり返る。キッチンから聞こえる物音と夫婦の仲睦まじげな話し声だけが、やけに目立って聞こえた。

 不意に、由希子が立ち上がる。

 向かい側のソファへと――正確には和也の方へとまっすぐ向かう由希子を、充紀と淳は息を呑みながら見つめる。

 冷たい表情を変えない和也の目の前に来ると、由希子はおもむろに手を振り上げた。

 ――パシンッ。

 乾いた音。その恐ろしくも虚しい響きに、和也の隣にいた充紀も、充紀越しに和也を見ていた淳も、思わず目を丸くした。

 叩かれた頬は痛むはずなのに、和也はただじっと由希子の方を見つめている。振り下ろした手を震わせながら、彼女は涙を零した。

「何で……どうして、そんなこと言うのっ!?」

 由希子の言葉を無視して、和也は静かに立ち上がる。ちらりと見えた横顔は、強い悲しみに耐えるかのような、悲痛な面持ちをしていた。

「……オレ、先に帰るから」

 暗い響きを伴った声に、充紀も淳も黙ってうなずくことしかできない。その心を覆っているのは悲しみなのか、憎しみなのか……二人に、今の彼の心境を慮ることはできなかった。

 立ちすくむ由希子の横を通り過ぎて、和也は玄関へと向かう。

 ガチャリ、バタン、という無機質な音とともに、和也は部屋から瞬く間に姿を消した。

 しばし、重苦しい雰囲気がリビングを包む。

 それを打ち破ったのは、キッチンにいた浩美の呑気な声だった。

「みんな、お食事できたわよ~」

 その言葉にハッとしたように我に返った由希子は、零れた涙をティッシュで拭う。えへへ、とこちらに笑いかける姿は――多少先ほどより化粧が崩れてはいるものの――もとの由希子だった。

「ついでだし、メイク落としてくるね。もうこれからは帰るだけだから、人目なんて気にしなくてもいいし。あなたたちには、特に気を遣う必要もなさそうだからね」

 明るく言って、由希子は浩美へと声を掛ける。

「浩美さぁん、ちょっとお手洗い借りるね~」

「はいはい、そっちの突き当たりを右よ」

 返事をして、由希子は教えられたとおりの廊下を進んでいく。

 ソファに座ったままだった充紀と淳は、ほぼ同時に立ち上がると、互いに顔を見合わせた。

「呼ばれたし、行くか」

「……ねぇ、和くんのこと、どうしよう」

「そうだなぁ。あいつって割と仕事不定期だし、事務所に呼び出されたとでも言っときゃいいだろ」

「ん、わかった」

 もやもやとした気持ちを抱えながらも、せめて浩美たちに余計な心配をかけるわけにはいかないと思う。せっかく、こうやって自分たちに良くしてくれているのに。

 きっと、由希子も……和也も、同じことを考えているだろう。

 和也のことは心配だが、下手に詮索するのもよくないし、彼もきっと自分たちが傍にいるのを望んでいないだろう。ぐちゃぐちゃになった気持ちを少しでも落ち着けるために、一人の時間が必要なことくらいは、自分たちにも理解できているつもりだ。

「ちょっと、みんなー? 早く来ないと冷めるわよー」

「「はーい」」

 返事が見事に揃い、思わず吹き出してしまう。

「さ、行くか」

「うん」

「あとで、少し和也にも分けてやろうな」

「そうだね」

 キッチンへ足を踏み入れると、ふわりと美味しそうな匂いが漂ってくる。

 化粧を落とし戻ってきた由希子――その顔立ちはやはり、童顔と呼ぶにふさわしかった――とともに、二人はダイニングテーブルに並べられた料理に頬を緩めた。

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