捨てた望み、追い続ける夢
叶えたい、望みがあった。
今現在、自身の生活をある程度犠牲にしてまでも必死で喰らいつき、追いかけている夢――ミュージシャンになりたいという願いのさらに上に、それはあった。
かつて抱いていたその望みと、今も捨てることなく追い続けている夢は、確かに同等だった。
夢の延長線上に、望みは当然のごとく存在していた。
――目の前からそれが跡形もなく消えてしまったのは、いったいいつの日のことであっただろうか?
昔から、場を盛り上げることが得意だった。
特に歌うことが何より好きで、当時テレビ番組で放送されていた流行の曲だったり、ちょっと古めの曲だったり、自分で作った曲だったりを、人前でよく歌っていた。
幼い頃から自分の居場所は、いつも一番目立つところ――数多の人間により作られた騒がしい輪の、中心だった。
常に笑顔に囲まれていたら、自分も自然と笑顔になれるような気がした。幸せで、あれる気がした。
自分が誰かを笑顔にできるのなら。幸せに、出来るのなら。
それは何よりも嬉しく、自分にとっても幸福なことなのだと、いつの頃からかずっと信じていた。
大半の人間がそうであるように、自分にも当然のように家族がいた。
無口な父親と、陽気な母親。年の離れた、男らしい兄……そして、いつだって傍にいてくれた、三つ違いの無邪気な姉。
彼らを……家族を、愛していた。
何があっても家族は自分の味方であり、自分もまた家族の味方であり続ける。愛情を向けることに、何の理屈もない。
愛してくれるから、必死で守ってくれるから。だから、自分もいつかは家族を愛し、守れるようにならなければならない。
兄は家庭を持ち、家を継ぐことを決めた。姉は、長年想い合ってきた幼馴染の男と、紆余曲折の末めでたく恋人同士になった。
では、自分は何ができるだろう?
考えて、考えて、考え抜いて、一つの結論に辿り着いた。
そうだ。得意な歌を生業にしよう。いずれはテレビや雑誌に取り上げられるくらい有名な、歌い手になろう。聴いてくれる人たちの心を動かし、笑顔にできるような、歌を歌おう。
そうしたら、きっとたくさん稼ぐことが出来る。そうしたら、そのありったけのお金を、愛する家族のために使うんだ。
自分を産んでくれた両親に、可愛がってくれた兄とその家族に。そして、いつも傍にいてくれた姉とその恋人が、これから作っていくかもしれない家族に。
彼らのために、家を建ててあげよう。
でも、その前に一人の人間として、高校だけはちゃんと卒業しなくちゃ。
小学生の時に一人で立てた計画は、その後中学、高校へと進学してからも、順調に進んでいった。
――きっと、この願いは叶う。
自分という存在が、みんなを幸せにするんだ。そして、これまで慈しんでくれた自分の家族も、幸せになるんだ。
自分が、この夢を叶えれば。
その頃の将来像は、まさに希望に満ちていた。きらきら輝いていて、想像するだけでうっとりした。
でも……。
あんなに酷い裏切りを受けるなんて、思ってもみなかった。
よりにもよって、長年愛し愛され、慈しみ続けてきたはずの、かけがえのないものと信じて疑わなかった存在から。
――かつての、家族たちから。
◆◆◆
ダイニングで、淳は先ほどから唸っていた。手に持ったシャープペンシルを、苛立ったようにくるくると幾度も回している。
テーブルには『就活セミナー』の見出しが躍るレジメと、『自己分析』と書かれた白紙のプリント、そして淳の私物と思われるルーズリーフが何枚か、無造作に広げられていた。
「淳ちゃん、何してんの」
キッチンで夕食の準備を整えていた和也が尋ねると、顔を上げた淳は弱ったように答えた。
「就活に向けての準備」
「あぁ……もう、そんな時期か」
和也は納得したようにうなずき、遠くを見るようにスッと目を細める。それから、何かに気付いたようにコテン、と首を傾げた。
「え、でも早くない?」
「早くないよ。だって俺、来年四回生やろ? だから、今頃から……三回生の夏休み前くらいから、少しずつ準備しとかなならんのやって」
「ふぅん……」
そうなんだぁ、と他人事のように言う和也に、淳は疑問を感じた。まるで、きっとどこでも大抵一緒であろう大学のシステムを、まったくもって知らないとでも言うような……。
「和くんって、大学出とらんのやっけ?」
「ん? うん」
当然とでもいうように、和也はうなずく。
「高校卒業して、すぐこっちに来たからさ」
浮かべた微笑みは、今にも消えそうなほどに淡い。
「ミュージシャンになる夢を本格的に追いかけることにして、この街に住み始めて……もう、十年近くになるかなぁ。月日の経つのは、早いね」
昔を懐かしんでいるかのような、けれどやはりどこか寂しそうな、切なそうな笑み。
まるで、遠い昔に失ったものに、恋い焦がれているかのような。
由希子がこのアパートに――自分たちの部屋の隣に越してきてからというもの、和也は普段からもこのような表情を浮かべることが多くなった。
彼女の存在がすぐ近くにあることで、これまで思い出すこともなかった昔のことに、否が応でも思いを馳せてしまうのだろう。
和也が由希子にひっぱたかれ、何かに耐えるような顔をしながら浩美の部屋を出て行ってしまったあの日。
和也の想いを汲んで、彼をしばらく一人にすることを決めた淳と充紀は、浩美の部屋を出た後、近くの公園で話し合った。
由希子が――彼の家族が関連しているのであろう和也の事情を、無理に聞くことはないということでとりあえずは落ち着いた。
あくまで、自分たちはいつも通り。もし由希子やその夫が、和也に対して何かを仕掛けてきたとしても。
和也自身が触れてくるまで、自分たちからは決してその話題を振ることはなく、頑なに黙っているつもりだ。
その上で、由希子たちとの近所付き合いはそれなりにうまくやる。
そう。かつて、充紀が浩美との関係を修復しきれていなかった頃、傍観者であった和也と淳が当然のごとくそうしたように。
決して、余計な詮索はしない。
そうしたら、和也を傷つけてしまうであろうことは、分かっているから。
「――淳?」
和也の不審げな声で、淳はハッと我に返る。どうやら、いつの間にか考え込んでしまっていたようだ。
「あ……ごめん、なぁに?」
苦笑しつつ謝ると、もぅ! と和也は頬を膨らませた。
「淳ちゃんって、そういうとこあるよね。周りをほっといて、自分の世界にこもっちゃうようなところ」
「よく言われる」
「まぁ、淳らしいと言えばらしいけどね」
ふふ、と笑う和也は、いつも明るくうるさいくらいに元気な人格とはまた違った、落ち着いた大人の雰囲気を纏っている。
五十嵐和也とは、本当はどんな人物なのか。実のところ、淳は近頃彼のことがよく分からなくなっていた。
底抜けに明るいムードメーカーで、常に分かりやすく表情をくるくる変えながら、楽しそうに日々を過ごしている和也。
どこか一歩引いたような態度で状況を見守り、時に母親のような眼差しを向けてくる和也。
家族だというはずの由希子に対し、今まで見たことがないくらいの荒々しく激しい感情をぶつける和也。
いったいどれが、彼の本当の姿なのだろう。
「もうすぐご飯できるから、テーブルの上片付けてね」
今目の前で微笑んでいる和也は、果たして本当の彼だろうか。
「もうすぐ、充紀くん帰って来る頃かなぁ……ね、淳。ちょっと充紀くんにメッセージ送ってみてよ。……淳?」
疑うことはよくないって、それは和也を傷つけることかもしれないって、分かってはいても……。
「じゅーんちゃんっ」
テーブルで頬杖を突き考え込む淳の、皺の寄った眉間を和也がつん、と人差し指でつっつく。
「また、何を考え込んでんのよ」
「……んーん」
心配そうに眉を下げる和也に、今までの暗く浅ましい思考を悟られたくなくて、淳は無理やり笑みを浮かべてみせる。
「就活のことで、ちょっと悩んでるだけだから」
それは半分本当で、半分は嘘。
自分の中で就職活動というものを重く、深刻なものと感じているのは本当だけれど、今この瞬間にあれこれ考えていたのは、また違うこと――和也のことだったから。
「そう……オレに手伝えることあったら、何でも言っていいからね?」
「うん、ありがと」
その表情からは心の底から自分を案じてくれていることが痛いほど伝わってきて、淳は少しだけ安心した。少なくとも、今目の前にいるこの和也は、本当の姿であると信じられる気がした。
今度は、上手く笑えたと思う。
様々なことを書きこみ混沌とした状態のルーズリーフを一枚、テーブルの上から拾い上げると、淳はそれをくしゃくしゃと丸めた。
「和くん、これなげといて」
「あいよ」
丸めたルーズリーフを、ポンッと和也に投げ渡す。和也はいつものように明るく笑って、受け取ったそれをゴミ箱に捨てた。
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