ユッコの願いと葛藤
昼休み、充紀が会社の食堂へ向かうと、近頃見慣れた顔があった。
「深山くん」
「あ、篠宮さん。こんにちは」
充紀と同じスーツ姿の、若い男性社員――今年からこの支社の総務部へ配属になった深山は、軽く手を挙げる充紀の姿を見つけると安心したような笑みを見せた。
「向かい、いいかな」
「はい、どうぞ」
お盆に乗せた定食を、深山の座るテーブルの向かい側に置く。近頃こういうことはよくあるので、深山の方もすっかり慣れたように、充紀のお盆が置けるスペースを自然と作ってくれていた。
アパートの隣同士の部屋に住んでいるとはいえ、部署の違う深山と充紀は出勤時間も退勤時間も滅多に被ることがない。それゆえ、二人が話す機会といえば、こうして唯一よく被ることのある昼食時間だけだった。
「ありがとう」
礼を言いつつ深山の向かい側の椅子に腰を下ろすと、いつも通りいただきます、と律儀に手を合わせる。そんな充紀に、深山は思わずといったようにクスッ、と笑みを零した。
「いつも思ってましたけど……篠宮さんってちゃんと、そういう挨拶をする方なんですね」
「あぁ……」
多少照れつつも、充紀は答える。
「うちでの、習慣なんだよな。だから、つい癖になっちゃって」
もちろん充紀も、一人暮らしをしていた頃はこのような挨拶などしていなかった。浩美と付き合っていた頃も、いちいちいただきます、とかごちそうさまでした、などとは言っていなかった気がする。
けれど、今は……。
「そういうことに、うるさいのが一人いるんだ」
思い出し笑いとともに言うと、深山は納得したようにあぁ、とうなずいた。
「もしかして、和也ですか?」
その通り、と一つうなずけば、深山は「やっぱりそうだ」とどこか嬉しそうに破顔した。
「僕ね、和也のことは結構前から知っているんです。というのも、妻と……由希子と僕は同い年で家も近くて。小さい頃から家族ぐるみで付き合いがあったんですよ。いわゆる、幼馴染ってやつ」
「そうなんだ」
「和也は、昔から人付き合いが上手でね。あの子は場を明るくする天才だって、由希子はいつも褒めていました」
深山が妻である由希子の話をすることは、当然これまでに何度もあった――それは大抵、彼女の面白おかしいエピソードだったりする――のだが、その弟……つまり彼にとっては義弟にあたる、和也のことについて口にするのはこれが初めてだった。
「和也と由希子は、そういうところがよく似ていて。どちらかがいるだけでもその場は十分盛り上がるのに、二人が同じ場所に揃ったら、そりゃあもうお祭り状態ですよ。騒がしい姉弟だって、近所はもちろん、どんな場所でだって評判でした」
今はもう、そういうこともなくなってしまったけれど……。
深山は目を伏せ、少し寂しそうにそう付け加えた。ひゅっ、と充紀の耳に届いた音は、自身が息を呑む音だったのかもしれない。
「いつも笑顔で、元気いっぱいで。歌うことが、場を盛り上げることが何より好きで……ひたむきに、歌手になる夢を追っていました。……俺には、そんなあの子が眩しかったし……俺にないものを持つ、年下のあの子を、羨ましいといつも思っていた」
途中から話し方が崩れてきたことに、遠い目を彼方に向ける深山は気付いているだろうか。懐かしそうな眼差しは、故郷にいた頃の楽しかった日々を回想しているかのようでもある。
「あの子が家を出て行ったのは、単純に夢を追うためだと思っていた。家族の反対を押し切って、一人で行ってしまったんだなって、若気の至りか何かみたいに軽く考えていた。でも、月日が経つにつれて……どうやらそれだけじゃないらしいって、薄々とだけど、俺も気づいてしまったんだ」
残り少なくなってきた定食の野菜炒めを箸でつまみながら、深山は淡々と続ける。
「普通、どれだけ忙しくても年に一回くらいは帰って来るはずでしょ? でも、和也は帰ってこなかったらしい。連絡をよこすことも、なかったって。どこで何してるのか、由希子はもちろん、家族の誰にも分からないらしかった」
やっぱり、と充紀は思う。
同居を始めたばかりの年も、その次の年も、和也が実家に帰ったような形跡はなかった。本人は『ちゃんと帰ってるよ』と曖昧に笑っていたけど、あれはやはり嘘だったのだ。
彼はもう、何年故郷に帰っていないのだろう。他人事とはいえ、何となく心配になってしまう。もちろん、余計なお世話だとは分かっているけれど。
「『また、今年も帰ってきてくれなかった』『携帯が繋がらないよ。番号変えられたのかな。住所も分からないし、連絡できない』『あの子、ちゃんと食べてるかな。心配だよ』……由希子は何回も俺に打ち明けては、静かに涙を零した」
深山の声が、だんだん悲痛を帯びていく。
「俺と結婚してからも……由希子の中から、和也の存在は消えなかった。住所がわからないから届けることもできない、あの子を案じる内容の手紙を何枚も書いていた。あの子が不定期に出すCDだけが心の寄り処みたいで、それを聴きながら、一人でひっそりと泣いていたこともあった」
深山の言葉から、充紀には容易に想像がついた。
携帯電話に繋げようとして、拒否通知を受けた時の切なそうな表情。出せない手紙を書いては、何通も机の引き出しかどこかに溜めこんだそれを見てうつむく横顔。CDショップで見つけた和也のCDを購入し、それを部屋で聴きながら思いを馳せ、一人で涙を零す姿……。
和也に対する由希子の、姉としての愛情が、憂いが、心配が、いくつも伝わってくる。
神妙な表情になった充紀を見て、深山は曖昧に笑った。
「何か、辛気臭い話してごめんなさい。つい、思い出してしまって」
「構わないよ」
充紀もまた、答えるように微笑む。
「あいつ、あんまりそういうこと話してくれないから……俺たちの知らない和也の素顔が垣間見えたみたいで、ちょっと新鮮だった」
「そうですか」
もう一度微笑んだ深山は、ふと自分の時計を見た。充紀もつられて自分の腕時計に目をやる。まだ、時間はそれほど経っていなかった。
「あの、篠宮さん」
「何?」
唐突な呼びかけに首を傾げれば、深山はこちらを真剣な表情でじっと見つめてきた。思わず充紀も姿勢を正す。
おずおずと、深山は言った。
「もし、よろしければ……もちろんあなた方が知り合ってからのことでいいので、和也のこと、聞かせてもらっていいですか。元気にやってるのかとか、今何してるのかとか……隣に住んでても、あんまり話す機会がないので、気になってしまって」
「あぁ、そういうことなら全然構わないよ。あいつの話題なんて、ホントにどこまでも尽きないから」
「ありがとうございます」
ホッとしたように文字通り胸をなでおろす深山に、充紀はにっこりと笑ってみせた。先ほどより幾分か覚めてしまった昼食に、互いに手を付ける。
充紀の話を聞きながら、うんうんとうなずいたり、吹き出すように笑ったり、懐かしそうに目を細めたりする。そんな深山を見て、充紀はふと思った。
この人は、和也と由希子の間に存在する確執について、どこまで知っているのだろうか。またその根源が何であるのかについても、把握しているのだろうか。
矢継ぎ早に聞いてみたい衝動に、話しながら何度も駆られたけれど、充紀はそのたびにぐっと堪えた。人づてに和也のことを知ろうとするだなんて、あまりにも卑怯な話だ。
その話は――たとえ、その全てが真実でないことだったとしても――和也本人の口から、聞きたかった。できることならば和也自身に、和也自身の考えを、想いを、打ち明けてほしかった。
だから、今はまだ知らなくていいのだと思う。それで、十分なのだと思う。何よりも和也が、掘り返されることを望んでいないだろうから。
それでも、いつか話してくれれば……その時は全力で彼の力に、支えになるつもりだ。きっと淳も、同じことを思っているだろう。
だから今は、その時がいつ来てもいいように、心の準備をしておこう。
密かに心に決めた充紀は、食事をしながら嬉しそうに自らの話に耳を傾けてくれる深山――考えてみれば、いつもと立場が逆だ――を一瞥し、柔らかく笑みを浮かべた。
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