話を聞いて

 陽が落ちて、すっかり薄暗くなった道を、疲れた体を引きずりながら、今日も充紀は歩いて行く。会社までは電車で行くので、家と最寄り駅の間は必然的に歩かなければならないのだ(たまに、車持ちの和也が迎えに来てくれる時もあるが)。

 駅に自転車でも置いておけばいいのだが、何せ転勤が多いので、いちいち持って行くのが面倒なのだ。引っ越しが多い身としては、なるべく荷物は少ない方がいい。

 そんなわけで充紀は、今日も今日とて最寄り駅から家までの道を一人、淡々と歩いていた。

 今日、淳は大学の友達と飲み会があるとかで、帰りが遅くなるらしい。出会った頃は未成年だったのに、月日の経つのは早いものだ……と、妙なところでしみじみと実感してしまった。我ながら、年を取ったものだと充紀は思う。

 ということは、今日はしばらく和也と二人か……。

 何となくそんなことを考えながら、特に言葉を発することもなく――まぁ、一人きりなので当たり前といえば当たり前なのだが――時折腕時計を見つつ歩いて行く。

 アパートに着くと、そのまま鉄製の外階段を上る。何故かこのアパートにはエレベーターが付いていないので、毎日こうやって階段を上り下りしなければならないのだ。

 カン、カン、カン……と、使い込んだ革靴の当たる金属音が辺りに響いた。毎日仕事で鍛えているし、まだ老体というわけではない(つもりだ)が、営業帰りの身にはさすがにきつく、途中で息が切れそうになってしまう。

 はぁっ……と息を吐き、充紀がようやく目的の階へとたどり着いた、ちょうどその時だった。

 ――ガチャッ、バタバタ……。

「かずくん! 違うの、聞いて!!」

「何が違うだよ!! やっぱり、あんたはあの人たちの……」

「誤解なの!! かずくんが思ってるようなことは、何も」

「うるさいっ」

 耳に飛び込んできたのは、騒々しい音と言い争うような声。その声と発された聞き覚えのある呼び名から、充紀は騒動の主が自らの知り合い――同居人の一人である和也と、その姉である由希子だと瞬時に悟る。

 これまでゆっくりとした足取りだった充紀だが、慌ててその足を速めた。とにかくまずは、この状況を何とかしないと。

 着いてみると案の定、部屋の前で二人の男女が何やら言い争っている……というより、激昂して詰め寄ってくる和也に由希子が必死で弁明しているかのようだった。

「おい、何してんだ」

「充紀くん……」

「充紀さん」

 こちらに気付き、目を丸くする二人に――特に感情が高ぶっているらしい和也に、充紀は淡々と告げる。

「何があったかは知らないが、とにかく落ち着け」

 ぐっ、と和也は一瞬怯むが、それでもこれだけはどうしても譲れないとでもいうように、すぐに強気な表情になった。

「落ち着いてなんて、いられないんだよ!」

「だから、違うのっ……お願いだから、話を聞いて」

「綺麗ごと言ってんじゃないよ、この裏切り者!!」

「和也!!」

 半ば錯乱しているらしい和也に、充紀が一喝する。これ以上彼が口を開いたら、さらに由希子が傷つくような気がしたし……和也自身も自身の言葉の棘に心を抉られるのではないかと思うと、辛かったのだ。

 ピリッとした空気と充紀の気迫に圧された和也は、もう一度黙り込んだ。険しかった表情が、みるみるうちに情けない、悲しそうなものへと変わっていく。

 充紀がうつむく和也の前に立ち、自身とさして変わらぬ高さにある頭を何度か軽く叩く。表情を歪ませた和也は、そのままぐったりと身体の力を抜き、充紀の肩にぼすっ、と頭を預けた。

 肩に確かな重みと温もりを感じながら、充紀はその頭を慰めるようにわしゃわしゃと撫でてやる。まるで、じゃれてくる大型の犬をなだめているような気分だ。

 その様子を、由希子は切なそうに、ほんの少しだけ懐かしそうに、見つめていた。


    ◆◆◆


 アパートの廊下で話をするのはさすがに憚られたので、とりあえず充紀たちの部屋へ入ることにした。由希子はいつもの無邪気な様子ではなく、少し消沈したように「お邪魔します」と消え入りそうな声を掛け、部屋に足を踏み入れた。

 和也は未だ充紀の肩に頭を預けたままで、充紀は彼をなだめつつリビングまでそろそろと足を進める。

「和也、とりあえず座ろう」

 ダイニングの椅子前で声を掛けると、和也はいったん頭を上げ、素直に従った。和也の隣の椅子に腰を下ろした充紀の肩へ、再び甘えるように頭を預ける。

 二人の後を静かについてきた由希子は、テーブルを挟んで向かいの椅子を引き、座った。

 しばらく、誰も話さない状態が続いた。

 和也は相変わらず充紀の肩に頭を擦り付けてうつむいているし、充紀は時折その頭や丸まった背中をいたわるように撫でるだけで、何も口にしようとはしない。由希子は向かいに座る二人を見て、ただ切なそうに、辛そうに、眉根を寄せていた。

 そして――……充紀の肩付近から聞こえてくる、くぐもった涙声がその沈黙を破った。

「オレは……ただ、信じていたかっただけ、なんだ」

 その言葉が、彼自身の抱える心の闇に――核心に迫るものであることに気付き、充紀はハッと息を呑む。由希子もまた、僅かに目を見開いた。

 周りが話を聞く体制になったことに気付いたのか、それともただ自分の心情を吐露してしまいたいだけなのか……和也は顔を上げることもないまま、独り言のように言葉を吐きだし続ける。

「オレは昔から、盛り上げることが好きだった。自分がその場にいることで、自分のやること成すことで、周りのテンションが上がっていったり、笑顔がたくさん増えたり……それが、すごく嬉しかった」

 深山の言っていたことと、それはほぼ同じだった。和也は昔から、本当にそういう人間だったのだろう。人を笑顔にすることを、生き甲斐にしているような……そんな彼に、充紀自身も、そしてきっと淳も、何度も笑顔にしてもらってきたのだ。

 そんな彼が、今隣で苦しんでいる。その事実だけで充紀の胸は張り裂けそうだったし、ぽつぽつと苦しげに紡ぎだされる言葉を、ここで聞いているだけなのも辛かった。

「喋りで楽しませたり、芸で笑わせたりするより、歌うのが一番得意だったから……その時流行っていた曲とか、自分で作った曲とか、人前で歌っては盛り上がってた。高校時代は軽音部だったんだ。オレは、もちろんボーカル。今でも、忘れられないなぁ……文化祭とかで、ライブやってた時のこと。スポットライトを浴びて、周りの演奏と客席の歓声を聴きながら、マイクに歌声を乗せた時の、あの快感。ふわふわとした気分で、頭も身体も沸騰するくらい熱かったけど、でもすっごく楽しくて。毎回欠かさず、あの人たちも見に来てくれていたっけ」

 あの人たち……彼を苦しめている原因、つまり家族のことだろうか。

 尋ねたかったけれど、とても口を挟めるような状況ではない。

 その家族である由希子は、先ほどから目を潤ませながら和也の独白に耳を傾けていた。

「ミュージシャンになろうって決めたのは、もちろんもともと歌うことが好きだったからだし、多分それが一番大きい。もっと大きな会場で、もっとたくさんの歓声に包まれながら、歌いたいって気持ちはずっとあった。でも……本当は、もう一つ理由があったんだ」

 淡々とした口調に、少しの熱が滲み始める。和也の気持ちが当時のものへと徐々に戻っていったような、そんな雰囲気を感じた。

「……オレがミュージシャンとして成功したら、お金がたくさんもらえる。そしたら、そのお金であの人たちに豊かな暮らしをさせてあげようって。オレは、あの人たちを幸せにしたかった。だって、大切な家族だったから。オレはあの人たちを愛していたし、あの人たちももちろん、オレを心から愛してくれていた。そう、信じていた」

 ……なのに。

 急にトーンの落ちた声に、びくり、と由希子が震える。まるでその続きを告げられることを恐れているかのように、色素の薄い瞳を揺らしながら和也を見る。

 未だ充紀の肩に顔を埋めたまま、誰の方へも視線を向けようとしない和也は、不意にきゅ、と充紀のスーツを握った。怒りのためか、それとも怯えのためか、その手は小さく震えている。

 少しでも落ち着いてくれたらと願いながら、充紀は丸まった背を励ますようにそっと撫でた。

 頭をぐり、と僅かに動かした和也は、小さく息を吐いた。震える吐息をそのまま言葉にするかのように、小さく告げる。

「高校三年生の、三者面談の少し前。……オレは、知ってしまったんだ。あの人たちが、ずっとオレを欺き続けていたこと。あの人たちが、ずっとオレに隠し続けてきた、秘密」

 やめて、と訴えるように、由希子が悲痛な面持ちで和也を見る。そこで、おもむろに和也は顔を上げた。充紀が驚いて顔を避けた拍子に、彼の横顔がちらりと見える。

 その表情は、今にも泣き出しそうに歪んでいた。

 潤んだ瞳が、由希子を捉える。二人の視線が絡んだ時、由希子はもう一度びくり、と小さく震えた。

「ねぇ、ユッコ。嘘つきだよね」

 表情とは裏腹に、声は冷たく淡々としている。息を呑みながら二人の姿を見つめる充紀の耳に、和也の突き放すようなひんやりとした一言が飛び込んできた。

「だってあんたは、オレの姉なんかじゃなかったんだもん」

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