5年目

咲き始める花

 ふわり、と生暖かい風が吹いた。どこかの桜から離れた白桃色の花弁が一枚、心地よさげに伸び伸びと空を舞う。

 今年から一応社会人になるということで、故郷の両親が送ってくれた真新しいスーツに身を包んだ淳は、同じく真新しい革靴をこつこつと鳴らし、駅からアパートのある市街地へ向けて歩いて行く。

「淳ちゃん!」

 すぐ先に公園がある道を歩いていると、前方からこちらに手を振る人が見えてくる。引き締めていた表情を緩め、淳はそちらへ駆け寄った。

「和くん」

 これからストリートライブへ行くのだろうか、ギターを背に抱えた和也が、満面の笑みを浮かべる。

「淳ちゃん、今帰り?」

「うん」

「そっかぁ、お疲れ」

「あら、淳くん」

「あ、ユッコさん」

 ねぎらいの言葉を掛けてくれる和也の後ろから、ひょこりと由希子が顔を出した。どうやら、姉弟水入らずのところだったらしい。

「今日は一段とかっこいいね」

 ピシッと決まっていて素敵よ~、と笑いながら、淳の額を小突く。「からかわないでくださいよ」と拗ねたように言うと、プッと吹き出された。

「本質は、変わってないわねぇ」

 まぁ、その方がいいのかもね。

 和也と顔を見合わせ、ねー、と仲良さげに笑い合う。

 そんな彼女の腕には、すやすやと気持ちよさそうに眠る赤ん坊がいた。昨年末に、予定通り彼女が出産した、第一子だ。由希子自身あまりそう言ったことについては詳しく語らないものの、和也の話では出産に至るまでにいろいろなことがあって、結構大変だったらしい。

 きっとこれからも、たくさんの苦労が待っているだろう。子供を育てるという苦労は、並大抵のものではない。

 それでも今、こうして母子ともに健康でいられるのだから、それだけで良いことだ――と、弟である和也だけでなく、充紀も、それから浩美も、まるで自分のことのように喜んでいた。

 由希子も、彼女の夫である深山も、幸せそうだった。

「元気そうですね、佑也ゆうやくん」

「おかげさまで」

 佑也と名付けられたその男の子の、生えたばかりの僅かな髪の毛を、由希子は愛おしそうに梳く。

 彼女の瞳には、すっかり母親特有の優しさが宿っていた。自分の母親にもきっとこんな頃があったのだろうと、そんなことを考えて、むずがゆい気持ちになってしまう。

 そういえば似たようなことを、和也も言っていたと思い出した。佑也と共に病院からアパートへ帰ってきた由希子を見て、彼はポツリと呟いたのだ。

『オレを見つけてくれたときの母さんも、こんな顔だったのかな……』

 彼は五十嵐家に拾われた子であり、実の子供ではない。そのことで和也も、そして由希子も、長い間苦しみを抱え続けてきた。

 けれど、捨て置かれていた幼い赤ん坊を抱えて帰ってきた五十嵐の母親もきっと、今の由希子のような穏やかで幸せそうな顔をしていたのだろう。そう、信じたかった。

 そんなことを考えていると、やはり女の人は偉大なのだなと、痛感せずにはいられなくなる。

 これまで振りきれなかった罪悪感とともに過去を乗り越え、ようやく自分を赦すことができた浩美も。大きな不安と心配の種が取り除かれ、無事母親になることができた由希子も……自分たち男より、よっぽど強くたくましいのかもしれない。

「ところで淳」

 自らの甥っ子である佑也を覗き込み微笑んでいた和也が、ふと思い出したように顔を上げた。いきなり話を振られて、淳は後ろめたいこともないはずなのに何故かびくり、と肩を震わせてしまう。

 そんな淳に気付いているだろうに、触れないまま和也は尋ねた。

「今日、入学式だったんだよね」

「うん」

 今日は、今年から臨時教員として通うことになる中学校の入学式だった。淳は、それで外出していたのだ。

「あ、そうなんだ。今年から働けるのね」

「はい。上手いこと欠員が出てくれたから、とりあえず当面は臨時教員としてね……助かりました」

「よかったわね」

 由希子の言葉に、素直にうなずいた。

「路頭に迷うことにならんくて、良かったです」

「ふふっ、淳くんったら」

 以前講師登録をしていた教育委員会から、欠員が出たという知らせを受けたのは、先月のこと。新学期ということもあり、また上手いこと空きができたものだなと、同居人たちと苦笑し合ったものだ。

「で、どうだった?」

「どうもこうもないよ」

 和也のあまりにアバウトな質問に、淳は身も蓋もないと思わず苦笑する。それでも心配してくれているのは分かったから、ちゃんと答えなければならないと思った。

「すっごい緊張した……でも、上手くやれたと思うよ」

 入学式の前に新任式と始業式もあったので、他の教師たちに交じって淳も壇上で自己紹介をした。緊張で最初はガチガチだったものの、並んで座っている新入生たちを見ると、あまりの初々しさに自然と頬が緩み、おかげでリラックスした状態で挨拶ができたと思う。

 初日にしてはいい方だろう。滑り出しは、なかなかのものだった。

「ここが、俺がこれから過ごす場所なんやなぁって、しみじみ感じたよ」

 これから、いろいろなことを学ぶであろう場所。

 いわば、修業の場。

 これから何があるのか、どういうことが起こるのか……どうなっていくのか、分からなくてちょっと怖いのは変わっていない。それでも今の淳には、以前のように立ち止まってしまうのではなくて、迷いながらも進んでいこうという前向きな気持ちがあった。

 自分は一人じゃない。いつだって支えてくれる人が、心配してくれる人が、周りにたくさんいる。そのことに、ちゃんと気づくことができたから。

 だからもう、何があっても怖くない。そう、素直に思える。

「今日は、あったかいね」

「ホント、お散歩日和だわ。佑也も気持ちよさそうだし」

 ゆったりと歩きながら、由希子が佑也を撫でる。その姿を感慨深く見つめながら、和也は背のギターを抱え直した。

「じゃあ、オレそろそろ行かなきゃ」

「ストリートライブ?」

「ううん。スタジオでレコーディングと、その後事務所で打ち合わせ」

「新曲出るんだ」

 へぇ、と目を丸くする淳に、和也は自信満々にうなずいてみせる。

「今回のは、ちょっと自信作なんだ」

「そうなんだ」

 いいのができるといいね、と淳が微笑めば、和也は照れ臭そうに「うん」とうなずいた。

「出たら、あたしも買うからね」

「ありがと、ユッコ」

 佑也にも聴かせてあげるんだ、と言って嬉しそうに笑う由希子。和也はますます照れ臭そうに頬を赤らめた。


 レコーディングスタジオへ向かう和也がその場を離れて行った後、由希子とは少し立ち話をした。佑也のことや、淳の大学での卒業式のことなど、他愛もない世間話だ。

 それから佑也を公園に連れていくという彼女とも別れ、淳は家路につく。和也は先ほど出掛けたし、充紀もいつも通り仕事に行っているので、帰ったらアパートには淳一人だ。

 帰ったら何をしようかとのんびり考える前に、淳は改めて決意を固め直すことにした。

 ――さて、頑張らなければ。

 明日からは、本格的に新生活が始まる。臨時とはいえ、教員としての生活が始まるのだ。

 ザッ、と風が吹いて、淳の髪を春風が揺らす。

 反射的に青空を見上げた淳は、穏やかで力強い光を放つ太陽の眩しさに目を細めた。

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