いつか来る『その時』

「それでね、蘇我馬子が何したかよく分かんないっていうから、俺が説明したの。そしたらその子が……」

 二人で夕食の支度をしていると、淳が今日学校であった生徒たちとの出来事について、楽しそうに説明をくれる。将来子供を持ったらこうなるのだろうか、なんてことを考えながら、和也は微笑ましく耳を傾けていた。

 淳が臨時教員をしている中学校へ授業に行っていた頃、和也は事務所へ行っていた。自信作である新曲のリリースは、もう来週に迫っている。帰りにマネジャーたちと近くの神社へ赴き、ヒット祈願をした。新曲のリリース前にはいつもしていることだが、今回は自信作ということもあって特に念入りに祈ってきた。

 和也が帰宅したすぐ後に帰ってきた淳にその話を軽くしたら、やけにドキドキした様子で『ヒットするといいね』と真剣な顔で言われた。まるで自分のことのように捉えてくれることが嬉しくて、つい笑みが零れたものだ。

 味付けされた野菜と肉の入ったフライパンを器用に振りながら、和也は壁に掛かった時計に目をやる。今日は遅くなると言っていたが、充紀はそろそろ帰ってくる頃だろうか。

「――だってさ。もう面白いよね」

 淳の話に、アハハッ、と楽しげな笑い声を上げる。あれこれ考え事をしてはいたが、もちろん和也は彼の話もちゃんと聞いていた。……なんとなく、ではあるけれど。

「最近の若い子は、すごいや」

「淳ちゃんだって、そんなに年変わらないじゃん」

「いや、でもさぁ」

 今日の夕食――メインは餡かけチャーハン、サブは野菜炒めと豆腐ハンバーグ――をついだ皿を和也から受け取り、ダイニングテーブルに次々と並べながら、淳が何気ないように言葉を紡ぐ。

「近頃の流行の栄枯盛衰ってのは、ホント早いよ。その辺で眠ってる蕾がいつ花開くかなんて、分かんないんだから」

 ね? とこちらを向いて首を傾げる淳に、和也は曖昧な苦笑いを浮かべることで答えた。

 自分なんて、何年眠り続けていることやら……。

 柄にもない皮肉めいたことを考えてしまう自分が、つい嫌になる。

 もちろん今こうしていることが、淳や充紀たちと過ごすこの生活が、決して苦であるわけなどないけれど。

「オレも、そうだといいけどね……」

「ん? 何か言った?」

 他意などないとでも言いたげな、無邪気な態度の淳へ、和也はおもむろに手を伸ばした。仕事用に整えられたままだったその黒髪を、わしゃわしゃと乱すようにして撫でる。

 「ちょっと、何すんのー」と投げかけられた笑み混じりの苦言に、和也はしてやったりと言ったように、意地悪く口元を吊り上げた。

「……お前ら、相変わらずだな」

 淳と和也がじゃれているところに、ガチャリ、とドアの開く音がして、帰ってきたスーツ姿の充紀が姿を現した。仕事疲れの残る、少しやつれたように見える精悍な顔に、柔らかな笑みが浮かぶ。

「あー、お帰りみっくん」

「お帰り、充紀くん」

「ただいま」

 二人の声掛けに答えながら、スーツの上着を脱ぐ。

「もうすぐ準備整うから、待っとってね」

「何だ、まだできてなかったのか?」

 急いで食器を並べていく淳を一瞥した充紀は、先に食べてくれてていいのに、と不思議そうに首を傾げる。充紀の上着をハンガーに掛けながら、和也がむぅ、と不機嫌そうに頬を膨らませた。

「何言ってんのさ」

「そうだよ、みっくん」

 もう一つの拗ねたような声に振り向けば、淳もまた手を止め、和也と同じような表情で充紀を見ていた。「何だよ」と眉をひそめれば、二人は至極当然とでも言いたげにうなずき合う。

「「三人揃わなきゃ、意味ないでしょ」」

『三人で食べたいから、早く帰ってきてね』

 前にも一度聞いたような、至極単純な台詞。それでもそれは、三人それぞれの真意を確かめ、心を温めあうには十分すぎるくらいの言葉だった。

 ――でも。

「……そっ、か」

 嬉しいこと言ってくれるな、と充紀は弾んだ声でわざと楽しそうに笑ってみせる。心に吹いた隙間風の冷たさからは、目を背けて。

 いつものようにちゃんと、笑えているだろうか。頬が引きつってはいないだろうか。泣きそうな顔を、していないだろうか。

「さ、出来たよ。食べよう?」

 淳が幼い子供のように、微妙な表情を浮かべたままの充紀にまとわりついてくる。彼の心のうちに気付いているのか、いないのかは分からないが、いつも通りの態度で充紀はホッとする。

 近づいてきた和也が、そっと充紀の背を押す。時折見せる彼の包み込むような優しさと柔らかな笑みに、また充紀は安心した。

 今はまだ、手放したくない。このぬるま湯に浸かった時のような、心地よいささやかな空間を、自分の言葉一つで凍らせたくはない。

 いつか来るはずだと分かっていた『その時』のことを、自分はまだ認めたくはない。彼らにも認めさせたくは、ない。

 和也も、淳も、こんなに楽しそうな顔で出迎えてくれるのに。

 湿っぽいことなんて自分たちには向かない。だから、笑っていよう。

 だんだんと現実味を帯びてきた『その時』が、自分たち三人を引き裂きに来るまでは。


    ◆◆◆


「篠宮、ちょっといいか」

 仕事回りを終え、会社に戻るや否や、充紀はやけに神妙な顔つきをした営業部長に呼び出された。

「……はい」

 内容については、もうすでに察していた。


「――転勤の、件だが」

 周りに誰もおらず、充紀と二人きりの空間になったことが分かると、すぐに営業部長はそう切り出してきた。どこか言いにくそうにしているのは、充紀の個人的な事情――打ち解けた仲間たちとルームシェアをしていることを、知っているからだろう。

「分かっています」

 案の定だと思いながら、充紀は答えた。不意に同居人たちの笑顔が浮かんだ理由にも、胸にちくりと針が突き刺さった理由にも、呼吸がしにくくて苦しい理由にも、あえて気づかないふりをする。

「もう一年だけ猶予が欲しいだなんて、身の程も知らぬわがままを言ってすみませんでした」

「いや……」

 深々と頭を下げた充紀を制するように、営業部長はそっとその肩を押し、顔を上げさせた。

「お前が入社以来、営業成績を着実に伸ばしていることは上から聞いているからな。少しくらいの要求なら、それほど俺が頭を下げなくても通してもらえたし……いや、それは別にいいんだ」

 神妙な顔つきのまま、真顔の充紀を見つめる。

「もう、大丈夫なのか」

「はい」

 きっぱりと、充紀は答える。内心は精一杯の強がりのような、虚勢を張っているような……とにかく、平常ではない。それでもそんな態度はおくびにも出すことなく、充紀の口は意外と冷静に動いてくれた。

「淳は、無事に社会人として歩み始めました。和也も家族と和解したことで肩の荷が下りたのか、今まで以上に精力的に、夢に向かってひたすら歌を歌っています。俺も、立ち止まっていた過去から解き放たれることができたし……はい。もう、大丈夫です。この何年かで、みんな成長できましたから。離れても、互いにちゃんとやっていけます。だから」

 もうそろそろ、お別れしなきゃいけないんです。

「あいつらのためにも……俺のためにも、それが一番いいんです」

 言いながら、充紀は自分の頭が少しずつ冷えていくのを感じる。

 そうだ。もともと、自分たちは他人だった。決して交わらないはずだった三つの人生が、今回のことでたまたま一つになって……そしてまた、三つに分かれていくだけ。

 ただ、それだけの話なんだ。

「同居人たちには、言わなくていいのか」

「まだ猶予はあります。それに、あいつらも俺がそういう人間であることを……いわゆる転勤族であることを、知っているはずだから。いずれはこんな日が来るだろうことも、分かってると思います。だからある程度、覚悟はできているんじゃないでしょうか」

「……そうか。ならいいが」

 営業部長は充紀から転勤の承諾が出てホッとしたように、けれどどこか哀しそうに、目を伏せた。ズキリと胸が痛み、思わず涙が零れそうになる。充紀は情けない姿を見られまいと唇を噛み、少しうつむきがちに営業部長の言葉を聞いた。

「寂しくなるな」

「今日明日とか、そんなにすぐの話じゃないでしょう?」

 震える声で、ようやくそれだけ告げる。ふぅ……と深く息を吐き、充紀はぎゅっと目を瞑った。目の淵に溜まっていた涙が一滴、ポタリと床に落ちる。

 パチパチと数回まばたきをした後、充紀はようやく顔を上げた。

「今年度いっぱいは、まだ営業部長にもお世話になりますから」

 それまでまたよろしくお願いしますね、と少し明るいトーンの声で笑うと、営業部長は「あぁ」と小さく笑みを返してきた。

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