動き出す日常
「ふぅ……」
ダイニングテーブルでノートと問題集を広げていた淳は、小さく溜息を吐いた。握っていたペンを置き、軽いストレッチとして凝り固まっていた身体を左右に捻る。
「お疲れ。そろそろ、一息入れな」
ほら、おやつの時間だぞ。
充紀の優しい声に促され、淳は広げていたものをいったん片付け、横に退けた。空いたスペースに珈琲の入ったカップと空のお皿が置かれる。
「どうしたの」
「深山くんが、ケーキくれたんだ。三人で食べてくれって」
「へぇ、そうなんや。今度会ったらお礼言っとかんと」
「まだいくつかあるから、夕飯の後にでもまた食べよう」
「うん。俺たちだけ食べたって知ったら、和くんがごねるもんね」
「ハハッ、あいつならやりかねないな」
淳と話しながら向かいのスペースに同じものを置いた充紀は、そこにあった椅子を引き、腰を落ち着けた。真ん中の空いたスペースに、数種類のケーキが入った箱を置く。
「何かさ、珍しいよね」
淳が口を開くと、ケーキに視線を落としていた充紀が「ん?」と顔を上げ、首を傾げる。小さく笑って、淳は続けた。
「いっつも、俺にこういうことしてくれるのは和くんだし。みっくんと俺が休み被って、和くんだけいないってことも、あんまりなかったじゃん。みっくんだけいないってことは、よくあるけどさ」
「うーん、確かにな」
充紀は納得したように唸る。それから何かを思い出したかのように、「でもさ」と声を上げた。
「前にもあったじゃん。俺とお前だけが休み被ったこと」
「あー。あったね」
「あの時はお前、いきなりオムライス作ってなんて言いやがってさ」
「んで、途中で帰ってきた和くんも合流したんよね。それで、三人でオムライス作ったんだ」
「ほぼ俺だけ動いてたようなもんだったけどな」
過去の話で盛り上がりながら、充紀と淳はそれぞれケーキの箱を覗き込む。「どれがいい?」と充紀が尋ねるのに、淳は少し悩んで答えた。
「モンブラン」
充紀は「わかった」と笑って、希望通りモンブランを取り出すと、淳の皿にそっと置いた。充紀が動かしたにもかかわらず、箱に入っていた時と何ら形態は変わらず、少しも崩れていないケーキを見て、淳は「器用やの」と感心したように呟く。
「そんなことないよ。……じゃあ、俺はチョコケーキにしようかな」
困ったように笑みを浮かべながら、充紀は自分の分のケーキを取り出し、また同じように慎重に皿へと置いた。
互いのケーキが出揃ったところで、フォークを手に取った二人は、ほぼ同時に似たような仕草で手を合わせる。
「「いただきます」」
夕食時にいつもそうするように、律儀な二つの声が合わさった。
「来週だっけ、試験」
苦い珈琲の入った温かいカップから口を離すと、充紀はモンブランに舌鼓を打つ淳に尋ねた。一時の息抜きタイムにこんなことを聞くのも野暮だっただろうかと少し不安に思いつつ、淳を待つ。
口をもぐもぐと動かしながら顔を上げた淳は、「うん」とうなずいた。口に入っていた塊をこくり、と飲み込み、言葉を続ける。
「来週末から始まるね。んで、終わるのは早くても来月かな……」
「へぇ、結構長期スパンなんだ」
「まぁね」
フォークに刺さったモンブランの欠片を、ぱくり、と口に入れる。
「クリームついてるぞ」
「え、どこ」
「もうちょっと左……うん、そこ」
口元の指示された位置についていたクリームを、淳が親指で拭い取る。それを確認した後、充紀は自分のケーキを食べながら再び尋ねた。
「そういや、どこの地域受けるんだ?」
「両方受けるよ。ここと、故郷と」
「併願できるのか」
「うん。大学試験とかと一緒。試験日が被らなかったら、複数の地域を受けていいんだってさ」
ただ、ここと故郷じゃ出題の傾向が違うからさ……と困ったように笑いながら話す淳は、試験という目の前の出来事に集中しすぎて忘れているのか。それとも、気付いていながら見ない振りをしているのか。
試験の結果次第で、またどちらを選択するか次第で、自分たちのこれからの運命が決まってしまうのだということを。
「……」
まぁ、どのみち自分は来年度から転勤するのだから、和也と淳がそれ以降も一緒に住もうがどうしようが、その時点で三人でのルームシェアは解消されてしまう。それはもう、決まったことであるわけだが。
「……みっくん?」
すっかり手が止まり、いつの間にかうつむいていた充紀に、淳が心配そうに声を掛ける。ハッと我に返った充紀は、慌てて顔を上げ、笑みを作った。
「試験、頑張れよ。受かったら、ご褒美に何でもしてやるよ」
「ホント!?」
身を乗り出した淳が、キラキラと目を輝かせる。社会人としての一歩を踏み出し、すっかり大人の様相になったというのに、こういうところにまだまだ未成年だった頃の無邪気さが現れる。微笑ましく思いながらも、少しだけ心配になった。
だからこそ、今でも転勤のことを言いだせないままなのかもしれない。
自分がこのアパートを去った後のことを、どうしても後ろ向きに考えてしまうから。
◆◆◆
一方その頃、事務所では……。
「え、CM?」
マネジャーと顔を合わせるや否や、付き合いの長い彼の口からいきなりそんな珍しい話題――もしかしたら、初かもしれない――が飛び出してきて、和也は唖然とした。
嬉々としたように、けれど少し戸惑ったように、マネジャーは「そうなんだよ」と答える。
「こないだリリースしたCDに収録されてるカップリング曲が、とある飲料会社の目に留まったようでね……次に発売する新製品の、CM曲に是非と」
「カップリングの方か……」
「まぁ、いいんじゃないのか?」
どちらかというとメインの曲の方がよかったんだけどな……と小さくうなだれた和也の肩に手を置くと、マネジャーは苦笑した。
「これをきっかけに、五十嵐和也って名前が一気に有名になるかもしんないじゃん。お前の自信作だって、世間様は聴くかもしれない」
「うーん、でもなぁ……その話、一発屋臭がプンプンするんだよね」
「仮に一発屋で終わったとしても、一曲売れるだけで結構生活変わるぜ? 長かった下積み時代とも、おさらばさ」
なぁ、悪い話じゃないだろう?
目を輝かせるマネジャーは、和也がミュージシャンとして有名になることを長年ずっと傍で応援してきてくれた存在だった。だからこそ、このチャンスをものにしたいと思ってくれているのだろう。和也のことを、案じてくれているからこそ。
その気持ちは痛いほど分かったし、和也自身これは今すぐにでも飛びつきたいほどの、願ってもないチャンスだった。
けれど……。
「どうせなら、ストリートライブの光景を目に留めてほしかったなぁ」
なんて、贅沢もいいところだろうか。
歌で正々堂々と勝負したい和也としては、拡散力の高いメディア媒体に頼るより、口コミなどで地道に有名になりたかったというのが正直なところだった。
「でもさぁ、和也」
マネジャーが、真顔で口を開く。
「この際、手段選んでなんからんないぜ。今行かないと、今度はいつ陽の目を見るか分からない。もしかしたら一生、このままかもしんないんだよ? せっかく舞い込んできたこのチャンス、モノにしなきゃ絶対後悔するって」
もしうまくいかなかったら、俺がマネジャーとして責任取っから。
「……」
マネジャーにそこまで言われてしまっては、もはや自分のわがままなど通すことはできない。
それに、彼の言う通りでもあった。
自分ももういい年だ。そろそろ、という焦りが少なからずあったのも事実。
今踏みださないと、一生このまま底辺でうごめき続けて、そのまま力尽きて死んでしまうのかもしれない。
何であれ、きっかけが降ってきたのなら掴まえないと。
「……分かった」
うなずくと、神妙だったマネジャーの顔がパッと明るくなる。自分のことのように受け取ってくれている彼に感謝しながら、和也も笑みを浮かべた。
「先方に連絡入れといて。何なら、俺のことも売りこんどいて」
「ふっ、了解」
どことなく楽しそうな足取りでデスクへと駆けていくマネジャーの後姿を眺めながら、和也はじわじわと、今までになかった不思議な感覚を――何かしらの予感を、覚え始めていた。
明るい未来に対する希望的な予感と、悲しい別れの予感を。
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