その姿は、徐々に遠く

 授業を終え、リラックスした様子でがやがやと騒ぎ始めるクラスの生徒たちをよそに、淳は使った教科書類を淡々と片付けていた。

「最近流れてるあの曲、いいよね」

「えー、どれ?」

「具体的に言ってくんないとわかんないよ」

「ほら、あの炭酸飲料のCMでさ……」

 一人の生徒が、歌を口ずさむ。その聞き覚えのあるメロディに、ふと淳は手を止めた。テレビはほとんど見ないし、そのCMとやらの存在も知らないが、その曲は知っている。確か、和也が最近口ずさんでいるものだ。

 どうやら耳にしたことがあるらしく、他の生徒が「あっ」と声を上げた。

「知ってるそれ。えっとね」

 思い出そうとしているらしく、うーん、とその生徒が唸る。同じ歌を小声で口ずさみ、やがて「あっ、そうだそうだ」と手をポンッと叩いた。

「……五十嵐和也!」

 聞き覚えがある、とかそういう次元ではないほど、あまりにも身近な名前。思わず、小さく声を上げて反応してしまった。幸いそれはあっけなくクラスの喧騒に呑まれて、彼以外の誰の耳にも届かなかったが。

「そうだよ、思い出した。五十嵐和也って人の曲だよ」

 あれは和也自身の曲だったのかと、そこで淳は初めて知る。道理で、彼が最近よく口ずさんでいるわけだ。

 まとめた荷物を、無意識に胸の前で強く抱きしめた。

「あー、知ってる。こないだ、テレビに出てた」

「物腰柔らかそうな男の人だよね」

「うん、んですっごく歌上手いの」

「何で今まで出てなかったんだろね?」

 才能ありそうなのにねー、なんて話しているのを背に、気付けば淳は逃げるようにして教室を出ていた。もうすぐ次の授業が始まる時間だったから、他の生徒たちには、単純に慌てているだけのように見えただろう。

 近くの空き教室に駆け込み、ドアに凭れてずるずると座り込む。足元に荷物を置くと、先ほどからどくどくと騒いで治まる気配のない心臓を両手で押さえた。

 何でこんな気持ちになるのか、分からない。分かりたくない。怖い。

「和くん」

 吐息交じりに、掠れた声で、その呼び名を紡ぐ。ずっと傍にいたはずの、身近であったはずの、彼。

 その名をもうすぐ、気軽に呼べなくなりそうな気がして。今までのように、気兼ねなく馬鹿みたいな話をしたり、一緒にご飯を食べたり、出掛けたり……できなくなってしまうような、気がして。

 五十嵐和也という人間が、遠い存在になっていくような気がして。

 彼が有名なミュージシャンになることは、もちろん淳だって望んでいた。それが和也の幼い頃からの夢だったと、知っているのだから。

 けれど、どうしてだろう。実際にその時が来ようとしている今、淳は確かに『嫌だ』と感じてしまっている。恐れを、感じてしまっている。

 今はまだ、そこまでの知名度があるわけではないだろう。少しずつ、メディア露出を始めているようではあるけれど。

 ぐるりと空き教室を見渡すと、教卓のすぐ傍、DVDデッキが入った台の上に、小型のテレビが置いてあるのを見つけた。教卓の端に置いてあったリモコンに、手を伸ばそうとして、止める。

 実際に、彼がこの画面に映っているのを見てしまったら。

 彼の歌を――これまで自分たちだけが知っていたはずの、優しく力強い歌声を、全国の誰もが知ることになったら。

 有名になっていく彼を、この目で見てしまったら。

 その瞬間、自分はどんな気持ちになるのだろうか。ちゃんと、彼の門出を……長年の夢が実現する瞬間を、まるで自分のことのように舞い上がりながら祝福できるのだろうか。

 もちろん、そうでありたいと願う。和也は――もちろん、充紀だってそうだが――淳にとって大切な、家族のような存在だから。

 たとえ出会ってからの期間がそれほど長いものでなくても、それは紛れのない事実で。

 だからこそ、なのだろうか。

 今の自分に、彼を祝福するなんてきっとできない。彼の夢の実現を、素直に認められそうにはない。気持ちがぐちゃぐちゃで、整理がつかない。

 せめてもう少し、自分が大人であれば……。

「……みっくんに、相談してみようかなぁ」

 溜息交じりに、呟いた。


   ◆◆◆


「――――……」

 中から、何やら話し声が漏れ聞こえてくる。充紀の部屋のドアを叩こうとしていた淳は、その手をぴたりと止めた。

 和也は、明日の朝が早いからという理由でもう床についていた。充紀に相談するならば今のうちだろうと思い、淳は意を決して、充紀の部屋の前までやって来たのだった。

 いつもの騒がしさと打って変わって、彼の立てる寝息は不気味なほど静かなので、全員が寝付いたあとのアパートは、普段から静まり返っている。だからこそ、その話し声はやたらと目立った。

「――深山くん、俺、どうしたらいいのかな」

 立ち聞きの趣味など自分にはないつもりだが、それでも聞き耳を立てずにはいられなかった。充紀の声が、あまりにも参っているかのように弱々しげだったから。

 音を立てないようにそっと、ドアに耳をつけるようにして耳を澄ます。その時の淳にはただ、電話向こうの相手――深山に話しているらしい、彼の声だけが聞こえた。

「もう、あと半年ぐらいなんだけどさ……まだ言えてないんだ」

 何がだろう、と思うまでもなく、その答えは充紀の口から発される。まさか聞かれているとも思っていないだろう彼は、あっさりと言ったのだった。

「――転勤すること」

 え?

 一瞬、目の前が真っ白になったような気がした。身体の力が抜け、床にへたり込みそうになるのを、どうにか抑える。

 もちろん淳が外にいることなど気づいていないだろう充紀は、少しの配慮もなく話を続ける。

「……そう、今年度いっぱい。本当は、去年異動のはずだったんだけどさ……上に無理言って、もう一年だけこっちにいさせてもらってたんだ」

 充紀が喋っていることが、理解できないわけじゃない。理解を、したくないだけだ。けれど、これ以上聞きたくないと思っても……これが現実だと認めたくなくても、淳はその場から離れることができなかった。

「え? 何でって……去年はさ、淳が不安定だったし」

 唐突に自分の名が出たことに、どきりとする。目を見開いている間もなく、充紀の口からは次の言葉が出ていた。

「ほら、就職とか……そういう時期だったから。あの時もし転勤してたら、俺は淳が心配でろくに仕事もできなかっただろうよ」

 ふふ、と力のない笑み混じりに聞こえた声。

 あぁ、そうだったのか……と漠然としたことを考えると同時に、言いようのない罪悪感のようなものがじわりと淳の中から滲み出てきた。

 自分が、彼を縛り付けていたんだ。

 転勤族である彼を留まらせるなんて、恋人だった浩美ならともかく、所詮赤の他人でしかなかった自分には許されないはずなのに……。

「けど、もう……あいつは、自分の足で歩き始めたから。和也の活動も、最近ちょっとずつだけど目立ち始めてきたことだし」

 もう、潮時なのかなって。

 覇気のない笑みを浮かべているだろう充紀を想像して、淳は胸をぐっと掴まれたような心地になった。

「何かさ、子供を置いて出ていく父親みたいな気持ちだよ。自意識過剰なのは、分かってるけどさ」

 自嘲的な声が聞こえる。

「案外あいつら、俺がいなくても上手くやってくのかもな。別れを惜しんで躊躇してるのは、俺だけなのかも」

 俺もジジイになったもんだよなー、なんて茶化すように続いた充紀の言葉は、そこで唐突に途切れた。淳が、充紀の部屋のドアを、バァン! と音を立てて勢いよく開けたからだ。

「淳……」

 ベッドの上で、携帯電話を握りしめたまま目を見開く充紀を、淳はキッと睨みつけた。しかし所詮強がりでしかなかった勢いは徐々にしぼんでいき、やるせなく伏せられた目から、一筋涙が零れる。

「……っ、ひどいよ」

 ドアを開けっ放しにしたまま、へなへなとその場に崩れ落ちる淳を、充紀はどうすることもできず呆然と眺めていた。

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