反省と人知れぬ決意
充紀の部屋の前で、ドアを開けっ放しにしたまま崩れ落ちた淳は、そのまま気絶するように眠ってしまったらしい。
さっきまでうつむき震えていたはずの淳は、ふと気づくと穏やかに寝息を立て始めていた。混乱のあまり繋いでいた電話を切ってしまった充紀が、とにかく彼を部屋に連れて行こうと立ち上がりかけたところで、もう一つの人影がドア前にふらりと現れる。
「和也」
自室で既に休んでいたはずの和也が、無表情で立っていた。
「最近、勉強詰めだったから……両方の一次試験が終わってひと段落ついたし、気が緩んだんだね」
独り言のように呟きながら、くったりと全身から力の抜けた淳をひょいと抱え上げる。されるがままになっていた彼はその瞬間、無意識なのか、和也の首筋へ甘えるように顔をすり寄せた。
「軽いなぁ。もともと小柄だからってのもあるけど、最近ちゃんと食べてるのかな」
クスクスと笑い、和也は腕の中の黒髪を一撫でする。
「……和也」
そのまま部屋を出ようとする背中に声を掛ければ、和也はゆっくりと振り向いた。柔らかかった表情が徐々に失われていき、それから辛そうに、まるで何かの痛みに耐えようとするかのように眉をひそめて充紀を見る。
「知ってたよ」
しばしの沈黙の後、ためらうようにポツリと、和也が言った。目を見開いた充紀が「何を」と尋ねようとするのを、暗くはっきりとした声が遮る。
「転勤のこと。……あーくんに、聞いた」
その口から出たのは、先ほどまで電話していた相手を指す呼称。今このようなことを考えるのは筋違いかもしれないが、次に彼に会ったら、先ほどの不義理について謝っておかなければならない。
「言っとくけど、あーくんは悪くないよ。最近充紀くんの様子がおかしいんだけど……って、オレがあーくんから無理に聞きだしただけだからさ」
深山には、転勤のことを話していた。
営業部の自分と総務部の彼は、同じアパートの隣同士というよしみもあって、部署こそ違うもののそれなりに親しくやっている。逆に部署が違うからこそ、そういった事情について話しやすかったというのもあるのだが……とにかく、誰かに悩みを聞いてほしかったため、営業部長など上の人間以外には知られていなかった転勤のことを、こっそり深山にだけ話したのだ。
そこから和也の――深山の義弟の耳に入ることを、充紀が考えなかったと言えば嘘になる。むしろ、そうしてもらった方がありがたいというのが、正直なところだった。
自分の口から打ち明けるのは、どうしても心苦しかったから。
でも……。
「どうせなら、充紀くん自身の口から言ってほしかったよ。人づてにそういう大事なことを聞くって、結構ショックなんだから」
和也の言う通りだと、充紀も納得する。
躊躇しないで、もっと早く、自分の口からこのことを言っていたら……中途半端に、誰かに話したりしなければ。そうでなければ、誰も傷つくことなどなかったのかもしれない。
「う……」
和也に抱かれていた淳が、苦しそうな声を上げる。
「ほら、淳だって……」
慰めるように、和也がもう一度その髪を撫でる。無意識に淳を傷つけていたらしい、自分のふがいなさに吐き気がした。
「じゃあ、もう寝るよ。オレ明日早いし、充紀くんも仕事でしょ」
淳も、このままじゃ苦しいだろうから。
ちゃんと寝かせてあげないとね、と苦笑しながら、和也は今度こそ部屋を出るべく背を向ける。
「起こして、悪かったな」
「いいよ。どうせオレも、ベッド行ったはいいけどあんまり寝れてなかったし」
充紀くんとあーくんの会話も、ちょっと聞こえてたし。
「……ごめん」
罪悪感で胸をいっぱいにしながら、目を伏せて謝ると、和也は困ったように笑った。「おやすみ」と言い置いて、腕に抱いている淳を起こさないように、慎重な足取りで部屋を出る。
「……まぁ、オレも人のこと言えないけど」
ドアを閉めきってしまう一瞬前に、ささやかな声で呟かれた一言。
その真意に触れる資格など、まだ自分にはない。充紀は、そう思った。
◆◆◆
淳がそのことに気付いたのは、一次試験の結果が出た後だった。
「……そっ、か」
二通の文書に目を通した後、淳は力なく呟いた。
この地方の試験も、故郷の試験も、一次試験は無事に通っていた。範囲が違うので、様々な分野の知識をこれまでたくさん取り入れてきたつもりだったが、どうやらその甲斐はあったようだ。
今、自分がいつもの調子だったなら……何も知らないままだったなら、同居人たちに嬉々として報告していたことだろう。これからのことなど何も考えずに、ただ目の前のことにだけ集中していたことだろう。
でも、今はとてもそんな気分にはなれそうもない。
「……俺、も」
掠れた声で、呟く。
「みっくんや、和くんを責める、資格なんて」
――ない。
最初から、故郷に帰ることを……実家に戻ることを視野に入れていた時点で、自分からこのアパートを離れようとしていたも同然だったのだ。
それなのに自分ときたら、転勤のことを内緒にしていた充紀を責めるようなことを言って、困らせて。和也のめまぐるしい活躍を、素直に祝福することも出来なくて。
「……何考えてんのやろ、俺」
はぁ、と小さく溜息を吐き、淳はそれぞれの二次試験の日程をもう一度確認した。予定を改めて手帳に書きこんだ後、面接試験のテキストを開きながら、とにかく今までと同じように目の前のことに集中しようと試みる。
それでも、暗い気持ちは晴れないままだった。
――せめて、努めて明るく振る舞わなければ。
「みっくん、和くん、見て! 一次通ってたよ!」
「おぉ、おめでとう淳! やったじゃんか」
「どっちも通ったんだね、すごい。お祝いしようか!」
淳の報告を聞いて、充紀も和也も明るく笑ってくれた。故郷にいる両親には、まだ二次試験が終わるまで報告を控えておこうと思って言っていないが、もし打ち明けていれば同じように喜んでくれていただろう。
二人とも、淳を家族のように思ってくれている。今までもそうだった通り、今この瞬間もそうだと、二人の嬉しそうな様子から伝わってきた。
これからのことについてはまだ、誰も何も言わない。だからこそ、この場にいる全員が、今を楽しもうと躍起になっているのだ。
だから、この心地よさも雰囲気も、決して偽りというわけではないけれど、多少無理をしているのは事実だったりする。
「よし、じゃあ今日はちょっと外食すっか」
「やった!」
「充紀くんの奢り?」
「淳には、奢ってやる」
「えー、オレはぁ?」
「お前も、淳に奢る側だよ」
ケチー、と唇を尖らせながら、和也が車を出すため、鍵を持って先に出ていく。その後ろ姿を見ながらぼんやりと立ち尽くしていた淳の頭を、充紀がボスッ、と軽く叩く。
「ほら、俺らも行くぞ」
「うん」
気を取り直したように笑みを浮かべる淳に、充紀は笑いかけた。
「給料出たばかりだからな、好きなの言っていいぞ。何がいい?」
「うーん、そうだなぁ……お寿司? イタリアン? それとも……そうだなぁ、ハンバーガー?」
「最後やけにお手頃になったな」
「冗談だよ」
――三人で食べられるなら、何でもいいよ。
そう言ったら、充紀も、そして和也も、寂しそうな顔をするのが分かっているから。そして自分も、似たような表情になるのをきっと抑えられないから。
今まで無邪気に口にできていたはずのその一言は、そっと、大切に胸の奥へと仕舞い込んだ。
◆◆◆
ベッドのサイドテーブルで、淳は書き終えた手紙を封筒に入れる。のりで封をすると、身体を伸ばし、置いてあった仕事用の鞄に滑り込ませた。
「……これでよし、と」
手帳で今後のスケジュールを確認したあと、ベッドに身を横たえる。目を閉じながら、これからのことを考えた。
教員試験の最後を飾る、故郷での二次試験までには、まだ猶予がある。夏休みも挟むので近いうちにいったん実家へ帰るのだが、その準備をするのはまたあとからでもいいだろう。
「とにかく、明日――……」
その呟きは、波のようにやって来た睡魔と寝息にかき消された。
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